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意外に知られていないことですが、1991年に展示内容の見直し・改装、続く1994年の改装以来、広島平和記念資料館の内容について様々な問題点が指摘されています。最も大きな問題の一つは、東館の見学に時間を取られ、本館(西館)の見学がなおざりになっていることです。全ての展示を見るのに3時間はかかるとされているため、順路に従って東館を見てから本館にたどり着いた段階で、ほとんどの見学者は疲れきってしまうのが現状です。物議をかもしているのは見学時間の長さだけではなく、展示内容の重点の置かれ方も問題視されています。入り口のある東館には、被爆前の広島の歴史的歩み、原爆が広島に投下されるまでの経緯、広島の復興の歩み、世界を取り巻く核の情勢や広島の平和への取り組みが、膨大な資料によって延々と展示されています。その結果、最も重要であるはずの本館にまとめられている被爆の惨状に関する展示には、平均観覧時間の4割しか充てられていないことが調査により判明しているのです。

では、被爆関連の展示よりも優先的に閲覧されるようになっている東館は、どのような内容なのでしょう?入館して最初に見るようになっている、「被爆までの広島」の展示説明を下記にいくつかご紹介します。
「…一方、陸軍の諸施設が集中していき、やがて学都・軍都という二つの顔が鮮明になりました。1920年代から発展しはじめた重工業も1930年代後半には軍需工業化していきました。被爆直前には、広島湾一帯は、呉の海軍とあわせて軍事的性格を強めていました。」(被爆までの広島)
「広島市は近代化の波に乗って、しだいに軍都・学都の性格を強めました。日清戦争(1894年〜95年)当時、戦争の指揮をとる大本営が設けられ、宇品港も軍用港としての色彩を濃くしていきました。一方、1902年(明治35年)には東京に次いで広島高等師範学校が開校しましたが、それらは都市の歴史的性格を物語る一例です。
広島は戦争のたびごとに陸軍部隊の集結・出兵の地となり、軍用施設も年々拡充されていきました。」 (明治・大正期のあゆみ)

上述のように広島の‘歴史’に関する展示は、明治にまで遡って説明が開始されています。そしてわずかばかりの市井の街としての紹介に続き、第五師団の創設、広がる軍用地、日清戦争と宇品港、急設された宇品線、広島に大本営設置、帝国議会を広島で開会、品に陸軍運輸部、陸軍3支廠の設置、義和団事件にも出兵、兵士たちの宇品帰還、日露戦争と市民の協力、農漁民の朝鮮移住、第五師団のシベリア出兵、似島検疫所も一役…と、原爆と一体何の関係があるのか甚だ不明な展示が続きます。更に昭和に入りますと、
「日本軍の中国大陸での戦争は、1931年(昭和6年)の、「満州事変」を引き金に、その後、1937年には日中全面 戦争に拡大しました。さらに1941年には真珠湾のアメリ力軍基地奇襲から連合国を相手にした太平洋戦争に突入しました。広島の各工場は軍の命令に協力し、生活物資の生産から軍需物資の生産へと急速に切り替えることになりました。市民生活は窮迫し、多くの市民が戦場や軍需工場に動員されました。そのなかには強制的に動員された朝鮮人や中国人も少なくはありませんでした」(昭和戦時下の広島)
という説明を筆頭に、日中戦争の始まり、第五師団にも動員令、第五師団兵士の遺骨帰還、全国に「精神総動員」、「兵隊宿」、空演習の実施、学生・生徒に軍事教練、広島工業港の建設(陸軍飛行場転用の説明)、三菱重工業の進出(戦時標準船建造の説明)、需工場への学徒勤労動員、朝鮮人・中国人などの強制連行、太平洋戦争の始まり、市民生活の窮迫、物疎開の強行、学童疎開の実施、第二総軍司令部の設置、第五師団の主な対外出兵・行動地、敗戦時郷土主要部隊の所在地…という項目別の説明が続きます。内容的には広島の‘歴史’というよりも、戦争の説明が中心です。
ここまででも全ての展示を閲覧するには、かなりな時間を要するにもかかわらず、東館では「原子爆弾」、「廃墟のヒロシマ」、「戦争・原爆と市民」、「核時代」、「平和への歩み」と、六つもの項目別展示が更に続きます。これらの展示でも、被爆の実態を紹介するよりも、‘軍事都市’だった広島が原爆投下後に‘平和都市’として再生した過程がメインとなっています。もちろん、平和への取り組みも大切です。けれども、軍都としての広島をわざわざ明治期から紹介し、そうした事実を見てからでなければ被爆内容に関する展示には進ませないという構成には、原爆よりも‘反戦平和’を主張しようとする企画側のイデオロギーが滲み出ています。これでは婉曲に、広島は軍都だったから原爆を投下されたと、来訪者に思い込ませようとしていると取られても反論の余地はないでしょう。(展示の詳細)

しかも、広島平和記念資料館では「南京陥落のちょうちん行列」と題されたパネルにて、次のようにあえて‘南京虐殺’にも触れています。
「日中戦争の初期には、日本軍が中国の各都市を占領していき、1937年(昭和12年)12月には当時の首都南京をも占領しました。「聖戦」を信じていた国民はこれに歓呼でこたえ、広島市民もちょうちん行列をくりだして祝賀しました。しかし、その南京では、当時、日本軍により多くの中国の人びとが虐殺されていました。(犠牲者数については、地域、期間によって数万から十数万などいくつかの説があります。中国側は犠牲者数を30万人と言っています。)
」
一方、平成8年にオープンした長崎原爆資料館では開館3ヶ月後に、展示していた「虐殺直前、日本軍に連行された中国の人々」という写真が、実は戦争中の反日宣伝映画(フランク・キャプラ監督の『ザ・バトル・オブ・チャイナ』)の一コマだったことが確認されました。この写真は、日本側の‘侵略と加害’についても紹介すべきとの見方から展示されていたもので、当然のことながら、資料館のこうした展示スタンスに抗議する市民も大勢おられます。問題の写真は展示から外されましたが、展示内容の偏った自虐史観は未だきちんと改善されていません。未だ本当にあったかどうかさえ議論の的となっている‘南京虐殺’を、原爆関連の資料館で展示する意義などあるのでしょうか。(展示の詳細)

広島が軍都であったと印象づけたり、日本が‘南京虐殺’を行ったという決めつけのもとに、原爆の実態を知らせる資料館が展示を行って良いのでしょうか?軍都だったから、日本軍が蛮行を行ったから…こうした立場を取るような資料館は、原爆投下を‘しょうがない’と容認しているも同然です。
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