この人を見よ
〜本島 等氏の言動の先にあるもの〜

飯嶋七生(自由主義史観研究会会報編集担当)
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「原爆投下は仕方なかった、やむを得なかった」
「原爆は落とされるべきだった」
これは、先般の久間元防衛大臣の発言ではない。被爆地長崎の市長を務めた本島等氏の見解である。
安倍晋三内閣にダメージを与えるために、久間発言を叩き続けたマスメディアは、その「成果(大臣辞任)」を勝ち取ると、潮が引くように批判の矛を収めた。強硬に謝罪を求めた識者や被爆者(含支援者)は、本当に久間発言に怒っていたのだろうか。なぜなら、本島等という左翼陣営の「英雄」が同じ、いや、それ以上のことを言っているにもかかわらず、こちらは堂々と平和主義者として通っていることをどう考えたらよいのだろう。
−米国の原爆投下をどう考えるか。
「落とされるべきだった。(満州事変から)15年間にわたるあまりに非人間的な行為の大きさを知るに従い、原爆が日本に対する報復としては仕方がなかったと考えるようになった」
−原爆の持つ非人間性は。
「原爆による死には『極限の残虐』という言葉が使われるが、拷問で死ぬ前の隠れキリシタンの恐怖は、いかばかりだったか。南京大虐殺や731部隊も残虐の極致だ。日本人の非人間性、野蛮が出ている」
−現在の核兵器をどうとらえるか。
「今、核兵器では何千万という人々が死ぬ。おもちゃのような原爆は、当時の考え方からすれば通常武器の一種だったと考えざるを得ず、核兵器廃絶を考える基礎になるものでない。被害の大きさが違い比較にならない」
−今の認識に至ったのはなぜか。
「日本人の持つ原爆観が世界に通用しないことを痛感するようになった。原爆は中国など侵略を受けた国々にとって救世主だった。市長を16年間続けている間、被爆者問題について考え続けたが、日本人の野蛮は計り知れない。日本人全員が謝罪する義務を負っている」
−被爆者団体の反発が予想されるが。
「撃たれた時もそうだったが、この発言を緩めるつもりはない。間違っていると思った時に声を上げるのが、われわれの任務だ。今年いっぱいかけて、これらの考えを論文にまとめたい」
(以上、共同通信社のインタビュー配信記事 1998年7月29日)
−米国による広島、長崎への原爆投下についてどう考えているか。
「米国やアジア太平洋諸国は原爆投下を『正しかった』『天罰だ』『救世主だった』と思っている。確かに、日本がアジア太平洋戦争などで行った数々の悪魔の所業を思うと、原爆投下は仕方なかった、やむを得なかった、と言わざるを得ない。東京大空襲や沖縄戦も同じだ」
−日本の行為の報いとして、原爆投下や東京大空襲、沖縄戦で多数の一般市民が殺されたということか。
「因果応報的であらっぽい考えといわれるかもしれないが、日本が戦争を仕掛けたときから、昭和天皇をはじめとする指導者はどういう報復があるか分かっていたはずだ」
−原爆や空襲、沖縄戦の犠牲者に責任があるのか。
「戦争責任は昭和天皇をはじめとする戦争指導者だけでなく、マスコミにあおられて狂信的に戦争を進めた一般民衆にもある。全国民を裁くわけにはいかないので、東京裁判で指導者が裁かれた」
−日本の「悪魔の所業」とは具体的に何を指すのか。
「条約を踏みにじって奇襲攻撃を仕掛けた日清・日露戦争やアジア太平洋戦争で行われた化学兵器、生物兵器を使った大量虐殺。例えば、南京大虐殺、三光作戦、731部隊だ」
−核兵器の使用は非人道的とは思わないか。
「1996年(平成8年)に国際司法裁判所は核兵器の使用を『一般的には違法』と判断したが、それまでは規定はなかった。当時の原爆は今の核兵器と比べれば、おもちゃのようなもので、通常兵器と変わらない。原爆による死を残酷だというが、南京大虐殺や三光作戦による死もすさまじい。書物によると、中国で日本軍に殺された人は1000万から1500万人、インドネシアでは400万人、フィリピンでは110万人。原爆や空襲犠牲者の数とは比べものにならない」
−被爆者や遺族をはじめとして、世論は反発するのではないか。
「自分の信念を言っているだけだ。世界の人々の共感が得られない原爆観、戦争観ではだめだ、と訴えたい。近く論文にまとめたい」
(以上、産経新聞 平成10年(1998年) 8月1日より) |
こうした過激な発言をくり返す本島等前長崎市長とは、一体どういう人物なのか?
「昭和天皇の戦争責任」発言(1988)で、従来、市長の支援者であった右翼団体の活動家に狙撃され、その発言がにわかに注目されるようになった。
本島氏は、大東亜戦争中、21歳の時、砲兵の観測小隊長として出征し、終戦時は見習士官で砲兵生徒隊の副官。戦後は、教職を経て、自民党所属の長崎県議会議員・長崎市長を歴任した。並行して「長崎日の丸会」の会長を務め、建国記念日には日の丸行進の先頭を歩くなど保守派と目される人物であった。
思想背景を示したできごととして、県議時代の昭和47年(1972)9月の長崎県議会において、左翼思想による教育に徹底的な批判をしたことがあげられる。
当時、長崎県被爆教師の会が中心になって作成した『三たび許すまじ-長崎原爆読本』が左翼偏向的であるとして、中学校での使用を取りやめるように迫ったのだ。
ちなみに同書は「国体を守るかどうかもめている間に、兵隊やなにも罪のない人たちの命がたくさん奪われたことを、私たちは忘れてはなりません」と、原爆投下を、天皇制度の維持にこだわった結果だとして弾劾しているものであった。
若き日の本島氏は、この内容に猛然と噛みついた。
| 「これこそその中に書いてありますとおり、よく左翼の人たちがすぐ逃げ場とする大資本の味方、日本の軍国主義の復活、あるいはまたそのいまの平和教育、そういう形のいわゆるこの左翼勢力のままの姿が露骨にあらわれているわけでございます。こういうものは幾ら考えてみても、不適当でございます。直ちにとりやめるように指導すべきだと思います」(昭和47年9月28日長崎県議会) |
こうした保守派に与しながら政治活動を続けてきた本島氏が豹変したのは、昭和63年(1988)12月7日の長崎市議会の場においてだった。共産党の柴田朴議員の質問に対して「昭和天皇には戦争責任があると思う」と答え、それが当日の朝日新聞夕刊で大きく取り上げられてからである。
それ以前、本島氏にこうした言動はみられなかった。ただし、もともとは社会党の所属であり、自民党にくら替えし、「長崎日の丸会」会長に就任しても、その活動にあまり熱心とはいえなかったことから、保守的言動も単に票ねらいであったという見方が強い。
本人も「ぼくもあの事件(本島長崎市長狙撃事件)がなければ、いまだに保守反動の親分かもしれんけどさ。あれ以来、ひどく左旋回さ」(『ゆるす思想 ゆるさぬ思想』本島等 山口仙二著 こうち書房 1992)と語るように、周囲があっと驚く「急旋回」だった。
当時、本島市長とその家族が経営する会社に対して複数の汚職疑惑が報じられていた。その疑惑を徹底的に追及していたのが、共産党の柴田朴市議であった。窮地に陥っていた本島市長は、柴田市議の質疑に「戦争責任」発言で応じたのである。それ以来、彼らの手がゆるみ、疑惑追及は沙汰やみになった。
共産党側の意に沿う発言をした市長をスキャンダルで潰したくなかったのだろうか、いずれにせよ不明瞭な政治的幕引きである。

誤解されないように、急ぎ述べておくが、いわゆる「転向」を非難しているのでは決してない。何らかの思いこみ、洗脳がとけたとき、自分のよって立つ座標軸を見つめ直し、軌道修正することは、少しも恥じることではない。
ことに歴史認識は、あらたに発掘された事実によって、通説も変更され、従来の解釈が変更されることもある。
たとえば、古代エジプトのピラミッドは、奴隷が酷使された無償労働によるとみられていたが、近年、建築に従事した労働者の出勤簿が発見されたことによって、農閑期の公共事業であったことが明らかになったごとくである。
しかし、その転向が、政治的な保身や思想風景の日和見によるのであれば話は別である。
大東亜戦争に従軍し、自身の目で状況を見聞しつつも、一切の戦争批判をしなかった人物が、戦後40年以上も経って、他国のプロパガンダである「三光」「南京大虐殺」「強制連行」「性奴隷」などを持ち出すのは、事実を突きつけられての内省だとは、とうてい思えない。
いわんや、連合国側の言い分「米国が原爆を投下せざるを得なかった事態を理解するには、それ以前の歴史的経緯を理解しなければならない」「オーストラリアの一新聞の言葉を借りれば『この残忍な民族、武器の上でも欲の上でも兵士達を十二分に訓練した民族に、原子爆弾を使用することはまったく正しい。彼らは敗北を受け入れようとはしないから』」を肯定するにいたっては、自我を喪失し空洞化させなければ、言えないはずである。(「広島よ、おごるなかれ-原爆ドームの世界遺産化に思う」平和教育研究(24) 1997)。
当事国でも破綻した原爆肯定論や、一部のアジアの声(しかも事実に基づかない誤った認識)をしきりに唱え、日本を断罪し続けた先には、一体何が残るのだろう。
本島市長の「強い信念で日本の加害、侵略を展示することにした」*長崎原爆資料館には、多くの修学旅行生や観光客が訪れる。
だが、間違いなく、それが核廃絶への思いに結びついていかないことだけは、資料館に寄せられた感想文・アンケートをみれば一目瞭然である。
「悪いことをした国は、原爆を落とされて当然」「原爆は救世主」…こうした感想を持つに至ったことを、被爆者は喜ぶのだろうか。
では、喜んでいるのは誰か。
非人道的な原爆を投下した国。
日本に道徳的負い目を感じさせておきたい国。
本当に、彼の目的が核を憎み、その廃絶を祈るものならば、その方法は取るべきではない。だが、もしそれとは別の目的があるのなら、大いに成功しているのだろう。
*長崎原爆資料館の現状については、現地で精力的な活動を続けられている「長崎の原爆展示をただす市民の会」から寄稿されているので多くは述べない。
* また、「長崎日の丸会」事務局長より、数々のご教示を頂いた。
【参考文献】(文中に示した以外)
大原康夫「本島市長を『言論の自由』の『神』に仕立て上げたのは誰だ」
初出『諸君』1990年5月号、のち『平成の天皇論』(1994)所収 長崎の原爆展示をただす市民の会『これでいいのか!長崎原爆資料館』(1996)。
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