パンプキン投下訓練

原爆を語るキーワード


1992年、米アラバマ州のマクスウェル基地のシンプソン歴史センターから徳山高専の工藤洋三教授入手した原爆投下部隊の作戦記録(“Tactical Mission Report”)は、509混成軍団への原爆の投下指令と爆撃後の報告が記されたものでした。509混成軍団は1944年の秋に結成された原爆投下のための特殊部隊で、アメリカ軍の爆撃部隊のうち、この部隊については公式記録から削除され、戦後30年間機密扱いとされていました。工藤教授によって明らかにされた160ページにも及ぶ作戦任務報告書には、509部隊に下されていた18の任務の詳細が記されています。

これらの作戦任務には広島と長崎への実際の原爆投下も含まれていますが、それ以外は超大型爆弾を使った原爆投下訓練でした。原爆投下への準備として、日本各地でこうした訓練が行われていた事実はあまり知られていません。しかし、広島に原爆を投下したエノラ・ゲイと、長崎に原爆を投下したボックスカーをはじめ、4.5トンもの原爆を積めるよう特別に改造が行われた15機ものB-29が509混成軍団に配備され、それらが原爆投下の模擬演習を行っていたことを、この作戦任務報告書は明確に示しています

原爆投下に際しては爆発に巻き込まれるのを防ぐため、高度1万メートルの飛行が要され、投下訓練も同じ条件で行われました。1万メートルは日本の戦闘機や高射砲の限界でもあり、そため509部隊は一機も撃墜されることなく日本本土での投下訓練を遂行しました。これらの周到な訓練は1945年7月20日の東京、大津、平への投下から始まり、実に16回も行われたのです。訓練に使用された爆弾は、その色と形からパンプキン(かぼちゃ)と呼ばれ、長崎に投下されたプルトニウム原爆と同じ形と重さでした。長崎型原爆は大量生産が可能でしたが、通常の爆弾とは形状が異なっていたので、どのような弾道を描いて目標に到達するかを習得する必要があったわけです。

パンプキンには高性能火薬が詰められ、通常の爆弾に比べて強力な破壊力を有していました。7月26日に行われた9回目の投下訓練にて、静岡県島田市の中心部で爆発したパンプキンは、推定49名の死者と150名の負傷者を出しています。訓練結果の報告には島田市への爆撃結果は大きな成果をあげたと記載されており、評価は‘excellent(優秀)’とされています。当時はこの攻撃を原爆投下の模擬演習と予測する術など島田市の人々にはありませんでしたが、たった一発にしては被害が大きすぎたため、新型の特殊爆弾ではないかとの噂が飛び交いました。なお、日本全国に総計49発が落とされたパンプキンでの投下訓練により、推定400人が死亡したと見られています。

しかし、509混成軍団作戦任務報告書によって判明したのは、模擬訓練の存在だけではありません。この報告書には、原爆投下候補地がどのように決定されたかについても、詳細に記録されていたのです。

原爆投下の目標地には、二つの絶対条件がありました。一つは、原爆の効果が他の爆撃効果と区別
できること。二つ目は、原爆が効率よく被害を与えられる地形であること。これらの条件をもとに最終的に選ばれたのが、広島、京都、新潟、小倉の4都市でした。米軍は日本を4つのブロックに区分し、それぞれの目的地候補へのルートを覚えるためにも投下訓練を行ったのです。例えば、広島への原爆投下を想定した訓練は、広島ブロック内にある徳山や呉で実行されました。7月29日の山口県宇部市への4発の投下訓練などは、その数日前の25日に既に広島への原爆投下命令が出されていることから、本番に向けての最終リハーサル的な要素を持ち合わせていると見られます。

さて、原爆投下までほとんど空襲被害を受けずに残っていた広島は、太田川の三角州の上に発達していたため、原爆の威力を試すには最適の地形と判断されていました。原爆の被害は7500フィート(2.3キロ)にも及ぶと想定され、市の中心に落とせば広島市の全域が被害を受けるだろうと見込まれていたのです。こうしてテニヤン基地を離陸したエノラ・ゲイは、8月6日に原子爆弾を広島に投下しました。509混成軍団にとっては、13番目の任務でした。

広島への投下に引き続き、長崎に原爆が投下されたことは周知の事実ですが、マクスウェル基地の作戦任務報告書には、更に恐るべき記述が含まれていました。それは8月14日、愛知県の春日井と豊田に4発のパンプキンが投下されていたというものです。つまり、長崎への原爆投下以降にも、何と509部隊は投下訓練を続行していたわけです。更に7月29日の和歌山と舞鶴での投下訓練から始まり、終戦までの投下訓練は集中的に京都ブロックで行われていました。これは一体、何を意味しているのでしょう?

長崎への原爆投下の翌日に、509部隊の産みの親であるグローブス将軍が参謀総長に宛てた手紙の中には、‘the next bomb(次の原爆)’は8月16日か17日までに、‘scheduled to be ready(準備が整う予定)’だと記されています。そして、陸軍長官だったスティムソンの‘京都への原爆投下は日本人の反感を買い、戦後の占領政策に支障を来たす’ との見方に反して、このグローブス将軍は盆地の平らな地形は原爆の効果を見るために絶好であり、京都を格好の投下地としてプッシュしていたのです。

もちろん、 結果的にはスティムソンの意見が採用されて、京都は被爆を免れました。しかし、グローブス将軍は終戦まで京都への原爆投下を諦めていなかったと思われます。なぜなら、マクスウェル基地で発見された報告書に含まれる8月13日付の野戦命令書には、6日と9日の原爆投下候補から外されて以後も、京都への爆撃を禁止する旨の記述があるからです。申し上げるまでもなく、原爆投下候補地への爆撃禁止命令は、後に原爆投下のあらゆる効果を観測するためのものでした。

工藤教授が発見した作戦任務報告書の内容からは、戦争を終結させる目的でアメリカがやむ無く原爆を投下したという印象などは受けられません。ましてや、広島や長崎が‘軍都’だったから選ばれたという記述もありません。長い間、トップ・シークレット(極秘)として扱われていたこの報告書には、アメリカがその後の核戦略につなげるステップとして日本に原爆投下をしていたと見なすに足る情報が、存分に含まれているのです。

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