スミソニアン展示論争

原爆を語るキーワード


1995年6月、アメリカの国立スミソニアン航空宇宙博物館では、戦後50周年を記念して、世界で初めて原子爆弾を投下したB29型戦闘機、エノラ・ゲイの展示が予定されていました。1984年から約10年がかりの修復作業を経たエノラ・ゲイは、1987年8月に館長就任したマーティン・ハーウィット氏の、その果たした役割である原爆の投下を中心に据えた展示にするという企画に沿って、広島や長崎から借りた原爆資料と共に展示される予定でした。

けれども、1994年10月、展示予定だった被爆者の遺品等、原爆被害の実態を伝える資料の点数を減らすという発表が行われ、翌1995年1月には展示計画から被爆関連資料の全面削除が決定しました。

エノラ・ゲイの展示が最終的にこのような結末に至ったのは、当初の企画内容に対して、空軍協会や全米退役軍人協会等を中心に、多くの非難や批判がアメリカで起こったからでした。この騒動はマスコミにも大きく取り上げられ、上院・下院議員まで巻き込んでの、アメリカでは前代未聞の一大原爆論争が繰り広げられました

被爆資料の展示に反対した多くの人々は、日本側の被害ばかりが強調されると主張し、原爆投下に至った背景についての日本の‘責任’が説明されていないことに強く抗議しました。アメリカでは原爆が戦争を集結させるために不可欠であったという見方が主流であって、大半の国民は投下を決定したトルーマン大統領の判断は正しかったと支持していたのです。

また、スミソニアンに寄せられた手紙の多くには、真珠湾攻撃に言及している内容が見られました。戦争を仕掛けたのは日本であって、原爆投下は日本が自ら招いた惨劇だというわけです。真珠湾に‘奇襲’攻撃を行った日本側こそが悪であり、アメリカは正義のために戦った…米国内に定着しているこうした認識が覆されようとしている。被害者と加害者の立場が逆転して伝えられようとしていると、被爆資料の展示に対して懸念を抱く人々が大勢いました。

一方、“New York Times”紙は被爆資料展示が中止になると、「アメリカは民主主義の国ではなかったのか」と指摘し、ABCテレビの番組は、「残念なことに退役軍人団体と政治家達は原爆投下を多角的に考えようというスミソニアン博物館の試みを潰してしまった。これは歴史にとっても我々にとっても公平を欠いている。言論の自由はアメリカが命をかけて闘い取ってきたものだったはずだ」と、批判的に報道しました。アメリカ政府の動向に疑問を抱くようになっていたベトナム戦争体験世代を中心に、ハーウィット館長の展示企画を支持する声も、少数でしたがあったのです。

1995年5月、ハーウィット氏は館長職を辞任しました。その後、彼はNHKの取材に対して、 「1945年以来、私達はそれ以前には機密だったり、機密扱いだったりした大量の情報を発掘してきました。私達がやりたかったことは、トルーマン大統領が当時考えていたことや、大統領の最も親しい顧問だったスティムソン陸軍長官が考えていたことや、二人が交わしたメモや、東京とモスクワの日本大使館の間で傍受されていた日本の暗号メッセージについて、私達が知ったことを―そこでは降伏の可能性が討論されていました―など、最近になって公開されたそれらの情報を、人々に提示することでした。(…中略…)多くの人々は、50年間に渡って信じ続けていたものに、新しい情報を付加したくなかったのだと思います。なぜなら、それらの新しい情報がもたらす見方は、それまでに信じてきたものとは異なる、遥かに複雑なものだったからです」と語っています。

被爆資料展示の中止決定は正しかったのか?これについては、未だに意見が分かれることでしょう。ただ、スミソニアンの被爆資料展示騒動は、歴史の認識と伝え方に関する重大な問題を内包していたことに間違いありません。日本国内でも、広島と長崎の原爆資料館の展示内容について、様々な問題点が指摘され続けています。しかし日本人の大半は、そのことに気づいてすらいないのが現実です。賛成・反対を問わず、実に真剣にスミソニアンの企画について、また、原爆投下についても議論していたアメリカの姿勢を、少しは見習う必要があるかもしれません。

尚、同じくスミソニアンのアメリカ歴史博物館では、14枚の写真で構成された、原爆についての展示がわずかですがあります。

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