非人道的な原爆投下に抗議して
割腹自決した伊村明彦


上原 卓(自由主義史観研究会理事)


1945年12月6日、伊村明彦という日系米人がペンタゴン(米国防総省)から派遣されて日本にやって来た。伊村は、間もなく始まる東京裁判(極東国際軍事裁判)における翻訳課次席であり、言語裁定官(モニター)の一人であった。

伊村明彦は1909年、キリスト教牧師伊村重四郎と妻ヨシの三男としてロサンジェルスに生まれた。二歳のとき、明彦は父の郷里鹿児島県加治木に住む父の妹ハギのもとに預けられた。

ハギは明彦を薩摩男子として厳しく育てた。明彦は、示現流三段、弓道三段、水泳二段、居合術初段の心身ともに逞しい若者に成長した。中学校を卒業した明彦は東京に出て大東文化学院に籍を置いた。大東文化学院は、男爵平沼騏一郎が「防共の砦」として創立した日本精神作興の府であった。

1929年の夏、学院四年生だった明彦は、母危篤の知らせを受ける。学院を中退しロサンジェルスに急いで戻った明彦だったが、母は既にこの世の人ではなかった。苦学してロサンジェルスの大学を卒業した伊村は、邦字新聞社に就職し論説記者として活躍する。

1941年12月8日、日本の真珠湾奇襲攻撃により日米は開戦した。伊村は優れた語学力を買われてペンタゴンの情報局勤務を命ぜられた。伊村はここで対日宣伝活動に従事する。戦局が米国に圧倒的に有利となった1945年8月、米国は広島と長崎に相次いで原爆を投下した。

米国に忠誠を誓って軍の仕事をしていた伊村ではあったが、トルーマン大統領命令によるこの原爆投下にはクリスチャンとして納得できなかった。伊村は、「極悪非道、悪魔の所業だ」と涙を流して怒ったという。

戦争が終わりキーナン検事団の筆頭翻訳官として東京入りした伊村の心のなかには、米国の正義に対する疑問が大きくふくらんでいた。

1946年5月3日、市ヶ谷の大本営跡において東京裁判が始められた。裁判長ウェッブの第一声がイヤホーンを通して、各被告、検事団、傍聴人の耳に流れた。

「今日、この法廷に集合するに先立ち、私たちは怖れることなく、且つ依怙贔屓、また愛憎に支配されることなく、法に照らして公明正大なる判決をなすべきである、と共同宣言に署名した次第であります」

このウェッブの第一声の同時翻訳は伊村がおこなった。prejudice を「依怙贔屓」と翻訳したのは、かつて日本で教育を受け日本に愛着をもつ伊村ならでは言語感覚であった。以後、伊村はウェッブの発した言葉の一部を削ったりウェッブの言葉に伊村の意思を巧みに加えたりする行動に出て、モニター班長ムーア少佐とトラブルをしばしば起こした。

なぜ伊村はこのような行動に出たのであろうか。それは、伊村が「侵略戦争をした」として日本を追及する連合国側の主張と、連合国側の主張に反論する日本の被告人たちや弁護人側の主張を客観的に聞いて通訳しなければならぬ立場にあったからだった。両者の主張を聞いていれば、伊村ならずとも連合国側の主張には法的道義的に無理があり、むしろ日本側の主張に道理が多くあると感じたであろう。

1947年3月2日の法廷で、日本側弁護人のブレークニーは、「広島、長崎に投下した原子爆弾の残虐性は誰が裁くのか」と、米国にとって触れられたくない問題について質問をした。東京裁判は「法に照らして公明正大なる判決をなす」と称していたが、ウェッブ裁判長はもとより大方の判事には日本の違法行為を裁く意思はあっても、連合国側の違法行為を裁くつもりはさらさらなかった。

ブレークニーの追及にたじたじとなったウェッブは、突然休憩を宣言して退場した。裁判の再開後、ウェッブは「判事たちの合議の結果である」として原爆論議を封じてしまった。

伊村は大東文化学院在学時代に、大川周明博士の講義を聴いていた。大川博士は「大東亜共栄圏の確立」を説き、「アジア民族の主体性が保障されない限り、世界はいつまでも白人支配を脱することができない」と主張していた。

日系二世の伊村は、米国に住んで人一倍米国人になろうと努力した。しかし、白人中心の米国社会で伊村は差別をうけ悔しい思いをしてきた。このような学習体験と生活体験をもつ伊村が、東京裁判の審議がすすむにつれて、「これは裁判の名を借りた白人の、日本人に対する偏見と憎悪に満ちた復讐劇だ」と思うようになったのは当然だったであろう。

1948年12月23日の早朝、東京裁判において死刑を宣告された東条英機をはじめとする七名の戦犯は、巣鴨拘置所で絞首刑に処せられた。

同日の夜、伊村は入浴をすませたのち真新しい着物に着替えて床屋に行き散髪をした。それから伊村は闇に包まれた神宮の森に行き、芝生の上に座った。伊村は神田神保町の骨董品屋で買い求めていた備前兼光で腹を断ち割ったのち、拳銃でこめかみを撃って自決した。

伊村は遺書を残していない。しかし、私は思う、日米二つの文化の狭間に生きた伊村は、日米のよき未来招来のためにみずからを生け贄にしようとしたのではないかと。

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