南京占領授業案
日本軍、南京占領 1937年12月13日

服部 剛(横浜市公立中学校教諭・自由主義史観研究会会員)
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以下は、これまで私が実践してきた授業に手を加えて、まとめなおした「試案」である。まだ検討中なので、不備も多々あるが、ご容赦願いたい。
そもそも「南京事件」は中共の政治プロパガンダであるから、中高生に教える必要のないものと考えている。しかし、教科書には「数万から数十万単位の殺害があった」との記述が一般的である。教科書に記述されているかぎり、その不当性を教えないわけにはいかないのである。ただし、教師側の押しつけのような形にはしたくはない。それでは、サヨク教師と同じだからだ。できるかぎり一次資料を提供し、虚偽の数字が出てくる背景や矛盾を生徒に考えさせ、気付かせる構成にしてみた。
なお、 ≪ ≫内のゴチックは、すでに記入してあるが、正答または予想される生徒の反応である。
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1.1937年12月、中国の首都・南京で何があったと言われていますか?
↓
≪ 南京事件、南京大虐殺 ≫
2.資料Aは、当時南京市で取材をしていたアメリカ人のティルマン・ダーディン記者による「日本軍の南京占領」の記事です。
資料A:1937(昭和12)年12月18日『ニューヨーク・タイムズ』
「南京における大規模な虐殺と蛮行により…殺人が頻発し、大規模な略奪、婦女暴行、非戦闘員の殺害…南京は恐怖の町と化した。…恐れや興奮から走るものは誰もが即座に殺されたようだ。多くの殺人が外国人たちに目撃された。」
※ダーディン記者は南京陥落2日後の12月15日に南京を脱出しています。 |
3.次の資料BCDを読もう。
資料B:(中華人民共和国の中学歴史教科書から)
「日本の侵略者は至るところで家を焼き、人を殺し、略奪し、悪事の限りを尽くした。日本軍は南京市民に対し、血なまぐさい大虐殺を行い、覆いようのない大罪を犯した。ある者は射撃練習の的にされ、ある者は銃剣訓練の対象にされ、ある者は生き埋めにされた。戦後、極東軍事裁判の統計によると、日本軍の南京占領後6週間のうちに、身に寸鉄も帯びない中国住民と武器を捨てた兵士で虐殺された者の数は30万以上に達した」 |
資料C:(日本の教科書から)
「年末には日本軍は首都南京を占領したが、そのさい、20万人ともいわれる捕虜や民間人を殺害し、暴行や略奪もあとをたたなかったため、きびしい国際的非難をあびた。日本人の多くはこの事件のことを戦争が終わるまで全く知らされなかった」 |
資料D:(日本の資料集から)
「1937年12月13日、中国国民政府の首都南京を占領した日本軍は、戦闘員だけでなく、女性・子どもを含む一般市民に暴行したり、略奪・放火をはたらき、20万人以上虐殺し、世界から非難をあびた」 |
4.以上から南京事件の概要をつかもう。( )に言葉を入れなさい。
a.南京市の地理
b.( )〜1938年1月半ばまでの時期 に発生した。
c.( )によって、( )人の中国人が殺された。
d.殺された人々の中には、多くの女性や子供などの( )が含まれていた。
e.この事件のことは、当時の日本人に( )なかった。

正解:a.地図で確認/b.1937年12月13日/c.日本軍、20〜30万/
d.一般市民/e.知らされ
5.資料BCDを読んで「変だなぁ?」と疑問に思ったことをメモしなさい。
↓
≪なぜ、市民や女子供まで殺したか/なぜ、日本国民には知らせなかったのか≫
6.次の資料E、Fを読んで、下の表を完成させよう。
資料E:
南京安全区国際委員会から日本大使館への申し入れ(1937年12月17日)
「もし市内の日本兵の間で、ただちに秩序が回復されないならば、20万の中国人
市民の多数に餓死者が出ることは避けられないでしょう」 |
資料F:
南京安全区国際委員会から日本大使館への申し入れ(1938年1月14日)
「貴下が登記した市民は16万人と思いますが、それには10歳以下の子供は含ま
れていないし、いくつかの地区では、年をとった婦人も含まれていません。ですか ら、当市の総人口はたぶん25万から30万だと思います。これだけの人口を普通
並みの米の量で養うとすれば、一日に2000担の米(あるいは一日に1600袋)が必要 となるでしょう」 |
※1.南京安全区国際委員会とは、中国人難民の保護を一手に引き受けた欧米人の機関。難民に食料を支給していたので、市民の人口を正確に把握していました。
※2.南京に残った市民は全員が「安全地帯」に避難していました。この安全地帯の面積はわずか4Kuほどでした。横浜市の山下公園とほぼ同じ、学校の近くにある深谷通信隊4個分の広さです。
| 中国側の主張:資料B |
1937年12月13日から6週間 |
死者:
≪30万人以上≫ |
南京安全区
国際委員会
の記録 |
資料E |
1937年12月17日 |
市民:
≪20万人≫ |
| 資料F |
1938年1月14日 |
市民:
≪25〜30万人≫ |
7.質問:完成した表を見て、明らかにおかしいことは何ですか。
↓
≪中国側の主張と人数が矛盾する。しかも占領1ヶ月後、人口が増えている。≫
8.次の資料Gの証言を読んで「これ、ウソなんじゃない?」と思う部分に線を引こう。資料G:中国側証言1946年1月20日付「南京地方院検事への魯甦(ろそ)による証言」。
資料G:中国側証言1946年1月20日付「南京地方院検事への魯甦(ろそ)による証言」
「日本軍入城後、まさに退却しようとする中国軍および難民の男女老幼、合計5万7418人を幕府山付近の45ヵ村に閉じ込めて、飲食を断絶した。凍えて餓え、死亡する者がすこぶる多かった。1937年12月16日の夜間に到って、生存している者は、鉄線を使って二人を一つに縛り、4列に並ばせて、下関(シャーカン)の草鞋峡(そうかいきょう)に追いやった。その後、日本軍は機銃を使って、ことごとくこの人たちを掃射し、さらに又、銃剣で刺しまくり、最後には石油をかけて焼いてしまった。焼却後の死体は全部、揚子江
(長江)に投入した。…当時、私は警察署に勤務していたが、市街戦になって、敵の砲弾によって を負傷して上天門に隠れていたの
で、その惨状を咫尺(しせき・極めて近い距離のこと)の目前に見た者である。それゆえ、この惨劇を証明できる者である。(口語訳)」 |
◆アンダーライン部分
・「合計5万7418人」→どうやって「一桁」まで数えることができたのか、不思議?
・「45ヵ村に閉じ込めて、飲食を断絶」→一望できるのか、不思議?
・「石油をかけて」→貴重な石油をそんなに使って良いのか、不思議?
・「咫尺の目前に見た」→何でこの人だけは命が助かったのか、不思議?
※この証言は、日本敗戦後、連合諸国によって我が国に犯罪国家のらくいん烙印を押すために開かれた「東京裁判」における証言です。
補足1:中国側の証言内容は、ほとんどが上記のようなものばかり。荒唐無稽です。
補足2:山下公園に最大数の20万人(学区である戸塚区の人口とほぼ同数)が死んでいる光景を想像させてみる。広さ4Kuという狭い場所に人口20万人。ということは、20uに1人、すなわち
5m×4mの土地に1人の死体が横たわっている光景…。また、40日間以上・連続で、毎日7千人規模の大虐殺が可能かどうか?→常識的にあり得ないだろう
。
9.資料Aのダーディン記者は、南京陥落2日後の12月15日に南京を脱出しています。記事の内容は彼の実体験ですか?
資料Aをもう一度、よく読んでみよう。
10.ダーディンはあるレポートを持っていました。有名な宣教師で南京大学教授のマイナー・ベイツが、南京の様子を書いた報告書です。下記の資料Hでベイツ・レポートとダーディンの記事を比べてみよう。
ベ イ ツ:日本軍はすでにかなり評判を落としており中国市民の尊敬と外国人の評価を得るせっかくの機会さえ無にしてしまいました。
ダーディン:日本軍は現地の中国住民および外国人から尊敬と信頼が得られるはずのまたとない機会を逃してしまった。 |
ベ イ ツ:日本軍の入城によって…安心した気持ちを示した住民も多かったのです。
ダーディン:日本軍が南京城内の支配…安堵の空気が一般市民の間に広まった。 |
ベ イ ツ:恐怖と興奮にかられて駆け出すもの、日が暮れてから路上で巡警につかまったものはだれでも即座に殺されたようです。
ダーディン:恐怖のあまり興奮して逃げ出す者や日が暮れてから…巡回中のパトロールに捕まった者は誰でも射殺されるおそれがあった。 |
ベ イ ツ:市内を見まわった外国人は、このとき通りには市民の死体が多数ころがっていたと報告…。
ダーディン:市内を広範囲に見て回った外国人は、いずれの通りでも民間人の死体を目にした。 |
質問: 資料からわかったことは何ですか?
↓
≪ ダーディンの記事は、ベイツのレポートを下敷きにしたものである。 ≫
→補足:よく見るとベイツのレポートも伝聞形式で記述されている。
11.これは、いったいどういうことでしょうか?次の資料 I を読んで、「ダーディンの記事」を追求してみよう。
資料 I :東中野修道『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』を要約
『中央宣伝部国際宣伝処(せんでんじょ)工作概要1938年〜1941年4月』(台北の国民党党史館に所蔵されていた「極秘文書」)によると、中国政府の中央宣伝部で国際宣伝の中心を担っていたのが、宣伝部の副部長・薫顕光(とうけんこう)と、国際宣伝処の
処長(しょちょう)・曽虚白(そうきょはく)の二人であった。中国は日 本よりも軍事的に劣勢だったため、「宣伝戦」に総力をあげていた。「現代の戦争は宣伝も
また勝敗を決する一つの要因である」「宣伝という武器は実に飛行機や戦車と同じく重要だ」と考えていた宣伝部は、『宣伝は作戦に優先する』を合言葉に、宣伝で日本を
め、国際的に日本を孤立させようとした。
『極秘文書』は「国際友人」を使って、中国が抗戦宣伝をしていたことを明らかにしている。また、曽虚白は自伝の中で「我々は国際宣伝においては、中国人が自ら決して前面に出ないで、国際友人に我々の代弁者になってもらう」と述べている。彼らが選んだ「我らが良き友」である国際友人とは、主に中国に在住する欧米の記者や学者であった。『極秘文書』には、こうある。
| あらゆる電報は初級検査を受けたのち、問題がなければ、検査者が国際宣伝処の「検査済みパス」のスタンプを押し、電信局へ送って発信する。もし取り消しがある場合は「○○の字を取り消してパス」あるいは「全文取り消し」のスタンプを押す。 |
電信局は中国政府に管理されているので、外国人記者たちは国際宣伝処の指導を受け、検閲を通ったもの以外は削除や差し止めにされ、記事として本国に送れなかったのだ。薫顕光の回想録によると、中国政府に対して「そうとうに打ち解けた感情」を持ち、「我が国に深い同情を寄せて」いる記者の一人がダーディンであった。 |
12.では、ダーディンにレポートを提供した宣教師ベイツとは何者なのでしょうか。資料Jを読みましょう。
資料J:東中野修道『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』を要約
ベイツは難民を保護する南京安全区国際委員会の有力メンバーの一人でもあったが、実は中華民国政府の顧問を務める人物であった。また、とうけんこう薫顕光の友人であり、その宣伝に協力して、ダーディンら欧米の記者に宣伝記事を書かせようと、このレポートを送ったのである。
ベイツのレポートは、南京陥落の翌1938(昭和13)年7月に出版された『戦争とは何か−中国における日本軍の暴虐』という本にも掲載され、日本軍による中国人殺害を訴えている。『極秘文書』を見ると、この本は宣伝部が宣伝本として出版したということが判明する。この本はイギリス『マンチェスター・ガーディアン』紙の中国特派員ハロルド・ティンパーリ記者が編集したのだが、実はこのティンパーリも宣伝部の顧問だったことがわかっている。曽虚白は自伝の中で、宣伝部がティンパーリ記者に「お金を使って頼んで本を書いてもらい、それを印刷して出版」したと暴露している。
ベイツは二度、中華民国政府から「日本との戦争中の人道的奉仕」を評価され、勲章を授与されている。最初の受章は1938(昭和13)年、ベイツが分担執筆した宣伝本『戦争とは何か』が宣伝部から出版された年である。二度目の受章は1946年(昭和21)、ベイツが敗戦国日本を裁く東京裁判に出廷して「日本軍が中国人4万人を不法に殺害した」と証言した年であった。
戦後、日本を始め各国では、この『戦争とは何か』を典拠として、日本軍による「南京大虐殺」を主張する本が多数出版されている。 |
13.今日、学習してハッキリわかったことや感想をどうぞ。
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以上は、まだ試案である。検討すべきものとしては、「日本側の証言も必要なのではないか?」ということ。当時、南京にいた新聞記者などの証言(阿羅健一著、『「南京事件」日本人48人の証言』小学館文庫)は貴重である。もし授業に挿入するなら、どこが効果的か、他にもっと良い資料があるかどうか、ご教示・ご意見をたまわりたい。
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