「1927年の南京事件」について考える

石部勝彦(自由主義史観研究会会員)

今年2007年は、「南京事件」の70周年ということが一部で言われているようです。しかし、1937年の南京には「事件」と呼ばれ得るようなものは何もなく、強いてその年の出来事を挙げるとすれば、「日本軍による南京陥落」くらいのものですが、それは普通の戦闘行為であって、それ以外の何ものでもありませんでした。また「南京大虐殺」という言葉もあるようですが、城郭の中の住民を皆殺しにすることは、チャイナの言葉では正確には「屠城」と呼ばれ、歴史上何度も行われてきた出来事なのだそうで、日本人もよく知っている例を挙げるならば、589年、北朝の隋が南朝の陳を滅ぼして統一を成し遂げた際、隋の軍隊が陳の都・建康(のちの南京)を占領した時に行った屠城、あるいは1864年、太平天国が滅ぼされた時に、南京を占領した清朝の軍隊が行った屠城が有名なのだそうですが、どれも日本には何の関係もない出来事でした。しかし、日本に関係のある「南京事件」というと、それは二度あったと思います。一つは1913年のそれ、もう一つは1927年のそれです。「1913年の南京事件」とは、孫文の第二革命が失敗に終わった際、袁世凱配下の軍隊が南京を占領した時に、その兵士たちが日本領事館を襲撃し、日本の軍人を数名逮捕監禁したうえ、日本人居留民に対する殺害、掠奪、暴行などを行ったという事件です。殺害された日本人民間人は3名、掠奪の被害を受けた日本人の経営する商店は34軒に及んだとされています。この知らせが日本にもたらされると、当然のことながら日本の世論は沸騰しました。これに抗議する「対支問題国民大会」が日比谷公園で開催されると、3万人もの民衆が集まり、激昂して、政府に対しチャイナに厳しい態度を取ることを要求し、散会後、数千の民衆が外務省に対してデモをかけたそうです。出兵の要求さえあったそうです。この大会を主導したのが、犬養毅、古島一雄、頭山満、内田良平らで、対チャイナ強硬論を主張しました。これをきっかけに醸成された強硬世論が、2年後のいわゆる「21カ条要求」につながったとも言われているようです。日本人として知っておきたい知識だと思います。

ここで取り上げたいのは「1927年の南京事件」です。これは、この年の3月、蒋介石による北伐が進行する過程で、逃げ出した北軍(孫伝芳の軍閥軍)を追って国民革命軍が南京に入城した際、革命軍の兵士たちによって日本を含む各国の領事館や外国人の住む住居などが襲撃され、殺人・掠奪・暴行が行われた事件のことです。中村粲氏の『大東亜戦争への道』(展転社、1990年)によると、事件は次のようにして起こりました。〈北軍の壊滅の迫った3月22日午後7時、森岡領事は在留婦女子全部を南京領事館内に避難させ、軍艦桧からは荒木亀雄海軍大尉引率の下に兵員9名、通信兵一名が派遣された。翌3月23日夕刻、北軍の敗兵が南門から南京城内に雪崩れ込み、領事館前を横切って下関方面に退却を開始した。そこで領事は男子をも領事館に避難させた。領事館内に集合した日本人は約100名、夜に入り、領事館は前門を閉ざして内に土嚢を積み機関銃を備えつけ、兵員は小銃を持ち武装して警戒に当たっていた。3月24日午前五時半頃、青天白日旗をかざした革命軍(南軍)が続々入城、領事館前を通過して下関に向かった。掠奪は敗残部隊によって行われるのが常なので、国民革命軍の入城とともに掠奪の危険は薄らいだ。又、10人の水兵で数千の支那兵に武力対抗することは絶対不可能なので、むしろ革命軍や一般市民の敵愾心を挑発せぬため、早きに及んで土嚢や機関銃は撤去する方が有利だと領事は判断した。荒木大尉もこれに同意したので、土嚢、機関銃を撤去し、かつ警備兵の武装をといて武器を一括格納するとともに領事館正面の門扉を開いた。ところが間もなく約50名の革命軍正規兵が、制服、制帽に小銃を携え、領事館の事務所、館員の官舎に乱入した。これを阻止しようとした領事館警察の木村警察署長は直ちに逮捕され所持品全部を奪われ、またかたわらより小銃で狙撃され前腕部貫通傷を受けた。事務所に居た駐在武官の根本博少佐も金庫の鍵を要求され、拒否すると銃床で腰部を殴打された。兵士らは事務所から官邸食堂に向け実弾を発射し、呼笛を合図に官邸を襲い、森岡領事の病室(領事は約1ヶ月前から左脚脱疽で歩行不能となり病臥していた)をはじめ掠奪を開始した。以後、自動車、馬車、人力車等運搬具を用意して続々と構内に侵入してきた多数の兵士は、官邸各所を徹底的に掠奪した。「避難者は虎狼に襲われたる群羊の如く四方八方に追い回され、婦人は幾回となく忍ぶべからざる身体検査を受け叫喚悲鳴聞くに忍びず」と森岡は報告した。病床の森岡領事も寝巻、寝具まで剥ぎ取られ、命中はしなかったが実弾2発の狙撃を受けた。木村署長、根本少佐はともに銃剣にて刺された。荒木大尉ら兵士10名は軍装のため革命軍兵士を挑発するのを避けて、官邸北側のボーイ室に避難していた。尼港事件の記憶がまだ生々しい時期でもあり、居留民達はあくまで陸戦隊が無抵抗主義をとることを懇請し、各兵の階級章とか帽子のような標識を一時取り去るよう森岡領事に懇望した。森岡は荒木大尉と協議したところ、大尉は居留民の安全のためその望みを容れた。その後侵入した南軍兵士の数は150余名から200余名に達し、掠奪は3時間余にわたった。暴徒と化した支那兵たちは青天白日旗を携え、口々に「日英帝国主義打倒」「華俄一家(中国とソ連は一家である)」等の標語を呼号した。そのうち女子供を含む数百名の一般人も押し寄せて掠奪に加わり、床板、便器、空瓶に至るまで一物も残さず持ち去った(森岡領事報告。臼井勝美『日中外交史―北伐の時代』、衛藤瀋吉論文「南京事件と日米」、佐々木到一『ある軍人の自伝』)。その日の夕方、我が官民一同は領事館を引き上げ、揚子江上の軍艦に収容されたが、領事館の警備に任じていた荒木海軍大尉は事件後の3月29日、軍艦利根艦上で引責自決を図った。

まことに表現の仕様もないほどの凄まじい事件であったと思います。最近この「1927年の南京事件」について、田中秀雄氏の編集・解説による『もうひとつの南京事件―日本人遭難者の記録』(芙蓉書房、2006年)という書籍が出版され、私も一読いたしましたが、もう、何とも言い様のない悔しさが込み上げてくるのを抑えることができませんでした。森岡領事の報告の中に「婦人は幾回となく忍ぶべからざる身体検査を受け」という表現がありましたが、これは宝石などを身体のどこかに隠してはいないかということで、全裸にして徹底的に調べられたということなのです。しかもこれが国民革命軍の正規兵による行為だというのですから驚きです。ところがこの後で、抗議を受けた革命軍の司令官がやってきて、これは北軍の行為であると演説して行ったそうです。なお、この外国人に対する暴虐事件は、日本人に対してだけ行われたものではありませんでした。中村粲氏は、先ほどの記述に続けて、〈英米もまた領事館、学校、会社等の掠奪を受けた。英米両国は3月27日午後三時四十分より約1時間、避難民救援のため江上の軍艦より南京城内砲撃を行なった。発射弾数は200に達した。なお、我が駆逐艦の吉田司令は、城内邦人の状況が不明で、城内砲撃はその虐殺を誘致する惧れありとして砲撃には参加しなかった。英米軍艦の砲撃による死者は12名、傷者は20名であった(支那外交部調査)。結局南京事件による各国死者は日本1、英国2、米国1、伊国1、仏国1、デンマーク1の計7名で他に2名が行方不明になった(外務省記録『南京に於ける支那兵の暴行及び掠奪事件』)。〉と書いておられます。

この大事件について専門の歴史学者がどのように書いておられるか見ておこうと思います。と言っても、たまたま私の書架にあったものを取り上げるにすぎませんが。まず比較的新しいもので、国際基督教大学教授で中国近代史がご専門の菊池秀明氏による『中国の歴史Iラストエンペラーと近代中国』(講談社、2005年)を見てみます。氏は、こう書いておられます。〈1927年3月24日に北伐軍が南京を占領すると、領事館に避難していた日本人居留民のあいだに安堵感が広がった。当時北伐軍に対する評価は極めて高く、孫伝芳軍のような略奪は行わないと考えられたからである。ところが朝になると北伐軍兵士が敵軍の捜索と称して領事館内になだれこみ、発砲して威嚇しながら一部の市民と掠奪を始めた。すると同じく領事館が略奪を受けたイギリス、アメリカの軍艦は、南京市内を砲撃して2000名の死傷者を出した。いわゆる南京事件である。〉これがそれについての記述のすべてなのです。なお、氏は、イギリス・アメリカ軍艦の砲撃による死傷者の数を2000とされましたが、中村粲氏はそれについて、死者12、傷者20とされていました。私としては、戸惑わざるを得ません。

つぎに江口圭一氏の『体系・日本の歴史14・二つの大戦』(小学館、1989年)を見てみたいと思います。江口氏は数年前に亡くなられたそうですが、愛知大学教授で日本近現代史を専攻され、その代表的な学者としてよく知られていた方だと思います。氏はそのなかで、これについてつぎのように書いておられます。〈24日南京も国民革命軍の手中に帰した。そのさなかに日英の領事館や住宅などが国民革命軍とみられる軍隊――国民革命軍側は軍閥軍と主張――に襲われ、略奪・暴行をうけ、イギリス人ら六名が殺されるという事件が発生した(南京事件)。また射撃をうけた揚子江上の英米戦艦は、南京城内を無差別砲撃して、約2000名を殺傷した。英・米・日・仏・伊五か国は4月11日国民政府に共同要求文書を提出し、責任者の処罰、謝罪、将来の保障、損害賠償を要求し、もしいれられなければ「適当と認むる措置をとる」と通告した。中国領水域には、170隻の列国軍艦が派遣されており、上海租界には3万にたっする外国軍隊がいた。日本軍艦は揚子江上に37隻、陸戦隊は上海2732名、漢口507名を数えた(4月末現在)。〉これが「南京事件」についての氏のご説明の全文です。私のコメントは差し控えます。

武田晴人氏(東京大学経済学部教授)の『集英社版日本の歴史19・帝国主義と民本主義』(1992年)は、昭和3年までの歴史を扱いながらも、この「南京事件」についてはまったく触れていません。これは驚きでした。中村政則氏(一橋大学経済学部教授)の『昭和の歴史2・昭和の恐慌』(小学館、1982年)も見てみます。これには、〈南京事件というのは、1927年(昭和2)3月、中国国民革命軍と、革命軍に敗れた山東軍閥張宗昌の軍隊とが、英国や日本の領事館を掠奪・暴行した事件をさす。これにたいし、若槻内閣が出兵しなかったため、伊東はこれを軟弱外交だといって非難したのである。〉と書かれているだけです。この部分は南京事件について説明をしたものではなく、この年4月の枢密院本会議において枢密顧問官の伊東巳代治が若槻内閣の幣原外交を痛烈に批判する演説をした時に、南京事件という言葉が出てきたので、その説明をされたところなのですが、それにしても、とにかく、この事件についての説明はこれだけなのです。

もう一つ、北岡伸一氏の『日本の近代5・政党から軍部へ 1924〜1941』(中央公論新社、1999年)を見てみたいと思います。北岡氏は東京大学法学部教授、日本政治史専攻。2004年から2年間、国連代表部特命全権大使をされたことでもよく知られている学者だと思います。北岡氏はつぎのように書いておられます。〈次に北伐軍は南京に向かった。すでに抵抗はほとんどなかったが、北伐軍が入城するとき、外国領事館や外国人を襲い、略奪、暴行、放火などが繰り広げられ、外国人数名が殺された。3月のことである。これは外国勢力、英米日に強い衝撃を与えた。事件の背後には、帝国主義勢力に対する長年の憤懣があった。しかし、これは共産党の影響下にある勢力の扇動によるものであった。このとき、幣原外相は、きわめて冷静な対応をし、最小限度の陸戦隊を上陸させただけであった。その結果、南京事件については、日本領事館を含めて襲撃されたが、100名あまりの居留民は、無抵抗で暴行を甘受したため、一人の死者も出さずにすんだ。また、4月3日に起こった漢口での衝突(漢口事件)においても、幣原は忍耐強く対応し、イギリスから共同出兵などの提起があったときにも応じなかった。幣原は、事件が共産党の少なくとも扇動によるものであると理解していた。これに対し強硬な態度をとれば、日本人の犠牲が増えるだけでなく、蒋介石の地位を危うくし、結果的に共産党勢力が伸びると考えた。〉北岡氏の文章は、先に引用した諸先生方のそれに比べればはるかにいいと思いますし、重要な視点が提起されていると思いますが、それでも私が大事と思うことについては、何も書かれていないと思うのです。私は、大いに不満です。これでは、一般向けに書かれた専門家による歴史の本をいくら読んで勉強をしてみても、大事なことは何も分からないという結果になると思います。

学者ではありませんが、元外交官で評論家として著名な岡崎久彦氏の『幣原喜重郎とその時代』(PHP研究所、2000年)も見てみたいと思います。岡崎氏は、ご自分の文章ではこの事件のことについて説明をしておられません。ただ、幣原喜重郎のメモワールからそれを抄訳するというかたちで説明をしておられますので、それを引用させていただきます。〈蒋介石の軍隊は武漢を制圧しようと思えばできる力はもっていたようであるが、あえて元の仲間と対決するのを避けて南京に向かった。幣原の回想を続ける。「蒋介石はそれから揚子江を下って南京へ入った。この軍隊はにわか仕立ての兵隊や、あるいは共産分子もいて、南京につくなり、外国人と見ると盛んに暴行、略奪をやった。英米人中にはそれぞれ2、3名殺害されたものがいた。日本人居留民は幸い殺害を免れたが、他国居留民同様、徹底的の略奪にあった。」これがいわゆる南京事件である。軍隊が都市を占領した場合、程度の多寡はあれ暴行、略奪はつきものであるが、このときは共産分子の意図的な謀略があったようである。すなわち入城した国民党第六軍の政治主任は共産党員であり、漢口のボロジンからの指示で、列国とのあいだに事を起こして蒋介石を窮地に陥れるために故意に外国人を襲撃させたという。〉まだ引用の途中ですが、どうも岡崎氏のご関心は、私のそれとは相当にずれているようです。私の感じた震えるような怒りは、岡崎氏には無縁なのでしょうか。まあそれは抑えて、岡崎氏のご本の引用を続けます。

≪南京事件についての幣原の述懐を続ける。「そのとき、南京の江岸には、日英米各一隻の砲艦がいた。英米の砲艦は自国人が殺されたというので蒋介石の根拠地と認められる場所を1時間ばかり砲撃した。ひとり日本の砲艦だけは発砲に加わらなかった。当時、幣原外相が日本の砲艦へ発砲を禁ずる訓令を発したとの風説を流布した者があった。私が軍艦の行動を指揮する立場にいなかったことは申すまでもない。あれは南京の居留民が、シベリア出兵のときにニコライエフスクで日本人居留民の大虐殺が行われたのを伝え聞いて、もし日本の軍艦が発砲したら、いままでは暴行略奪に止まっているが、今度は生命に危害が加えられるかもしれないと艦長に『どうか我慢して発砲しないでください』と嘆願し、艦長は快く引受けたのである。そして艦長は、自分だけのみ込んで、部下の誰にも知らせず、発砲を命令しなかったという。それを部下の若い士官は、ひたすら私が発砲を禁じたと思い込んで憤慨し、国内でも衆怨は私に集まった。」この記述は、事実のとおりで正確である。有能な官僚出身の幣原が、あれだけ面倒な問題である統帥権に不用意に介入するはずがない。また、数の少ない英米人ならば特定の場所に避難できるが、砲艦一隻で在留邦人全部を保護できるはずもなく、艦長の措置も妥当である。ただ、領事館に赴いた日本の海軍大尉が居留民とともに暴行を受け、そのときは艦長の指示を守って抵抗しないで堪えたが、帰艦後、帝国軍人として屈辱に堪えないと割腹した事件もあり、世論が激昂したのである。

なるほど、とは思います。「南京事件」が起きてしまった段階では、抵抗しても無駄であったろうし、被害がもっと大きくなる可能性は十分にありましたから、現場での措置は正しかったのかもしれません。しかし、幣原の述懐にしても、それからそれを引用される岡崎氏の態度のなかにも、この事件に対する怒りのようなものが少しも感じられなくて、私としては、どうしても納得がゆきかねるのです。ただ、一つここで確認しておきたいことがあります。それは、この時日本軍が無抵抗であったのは「幣原外交」のせいである、という説があると思いますが、それを岡崎氏がはっきり否定しておられることです。実は、居留民自身がそれを望んでいたのでした。そして、それは、中村粲氏もそのように書いておられたことでした。もちろん、「幣原外交」には検討すべきことが多くあると思いますが、それは別問題であると思います。

もう一つ、ここで注目しておかなければならない問題があると思います。それは、この南京事件における略奪・暴行は、一体誰がやったのか、あるいはやらせたのか、という問題です。それは逃げていった北軍ではなく、後からやってきた国民革命軍であることは明らかなのですが、さらにその革命軍のうちの誰なのか、ということが問題にされています。これは、幣原もすでに指摘していたのですが、岡崎氏も、やったのは共産党で、しかもコミンテルンの指示による蒋介石を窮地に陥れるための計画的、意図的な謀略であったとはっきり認めておられます。私は、それだけではないだろうとは思うのですが、この点は重要なポイントであると思います。このことについては、もう引用することはやめますが、中村粲氏が実に丁寧に立証しておられます。

ただ、私として気になるのは、専門の歴史学者の先生方が、私の知る限りでは北岡伸一氏を除いて、どなたもこのことを指摘しておられないということです。そこで念のため、いくつかの歴史辞典の説明を見てみることにしました。『山川・世界史小事典』の「南京事件」の項では、「@[1927]1927年3月24日、南京で起きた暴動に端を発した国際的事件。中国共産党の指導下の国民革命軍は、北方の軍閥軍を破り南京を占領。軍閥軍は敗走するが、その際大衆も加わりイギリス、アメリカなどの領事館、居留地を襲撃、略奪。イギリス、アメリカなどは居留民保護を理由に南京城内を砲撃。中国側に2000人あまりの死傷者を出した。イギリス、アメリカなどはその後、蒋介石に大衆運動の鎮圧を要請。日本は幣原外相の内政不干渉主義により砲撃には加わらなかったが、事後処理ではイギリス、アメリカに同調した。蒋は事件の背後に共産党の扇動があったとし、これ以上の諸外国との対立はかえって列強の軍事侵攻を増長させると判断し、4・12クーデターに踏み切った。(このあとA〔1937〕南京大虐殺ともいう。と続きますが、これは省略します。)」となっています。この説明では、日本の名が被害者として出てこないことに、まず奇妙な感じを持ちました。また、南京を占領したのは共産党指導下の国民革命軍としていますが、領事館などを襲撃、略奪したのはそれだとは断定せず、敗走した軍閥軍と大衆であったとも取れるような書き方になっています。そして、事件は領事館などが襲撃、略奪されたことよりも、イギリス、アメリカなどにより南京城内が砲撃され、中国側に多数の死傷者が出たことの方が重視されているようなニュアンスを感じます。なお、その死傷者数を2000人としていることに注目をしておきたいと思います。それに「日本は幣原外相の内政不干渉主義により砲撃に加わらなかった」としていますが、これは岡崎久彦氏らが明確に否定された見解です。また日本は「事後処理ではイギリス、アメリカに同調した」とありますが、ここでは詳しくは紹介できませんが、これも岡崎氏に否定された見解です。北岡氏も否定しておられました。肝心の共産党の計略という問題ですが、「中国共産党指導下の国民革命軍」としながらも、「共産党の扇動」については、それをあくまで蒋介石の見解として扱い、それを4・12クーデターに結びつけ、あたかも共産党が蒋介石の謀略の犠牲者であったかのようなニュアンスで書かれているように思うのです。いずれにせよ、この辞典の説明は非常に問題であると思います。もう一つ、『角川・世界史辞典』を見てみたいと思います。その「南京事件」の項の説明は、「@1927年に南京で発生した国際事件。27年3月24日、国民革命軍が南京に入城した際に日本、イギリス、アメリカなどの領事館が襲撃されたのにたいして、長江上のアメリカとイギリスの軍艦が城内に威嚇砲撃を加えた。襲撃したグループについては、国民党軍あるいは共産党軍など諸説ある。(Aについては、もちろん省略します)」となっています。あまりにも簡単、そして無責任な説明には、苦笑せずにおられません。なお、この項の説明の最後に、(笠原)と執筆者の名が記されています。笠原十九司氏のことのようです。

どうやら日本の歴史学界に所属する学者の方々は、中村粲氏や岡崎久彦氏が指摘された諸問題について、意図的であるかどうかは分かりませんが(私はそうだと睨んでいるのですが)、避けている、少なくとも触れようとはされていない、そのように思えてならないのです。強いて言えば、黙殺している。どこかで反論されているのかもしれませんが、私の不勉強のせいか、私は承知していません。中村粲氏のご本が出されたのは1990年、岡崎久彦氏のご本は2000年のことです。それ以後に出されたご著書で、もし批判がおありになるのなら、学者としての立場から一言あってしかるべきだと私は思うのですが、それがされているようには思えないのです。もしかしたら、中村粲氏や岡崎久彦氏を学者としては認めていないということなのかもしれませんが、私はそのような歴史学界の風潮のようなものに、大きな疑問を呈せざるを得ないのです。とにかくそういう見解が世に出ているのですから、学者として黙っているというのは、おかしいことだと思うのです。

最後に、ここで中村粲氏のつぎのご意見をご紹介したいと思います。〈ところで南京事件についての『中国歴史』(中国の全日制十年制学校初中課本・人民教育出版編)の記述は次の如くだ。「帝国主義は中国での反動支配を守るため革命を破壊しようとした。3月24日北伐軍は南京を占領した。その日の夜、イギリス、アメリカ、日本などの帝国主義は狂ったように南京城を砲撃し、中国軍民2000人余りを死傷させた。」中国兵の蛮行は一行も記さず、列国は理由なく南京を砲撃したかの如く書き、また砲撃を「夜」とすることによって無差別砲撃の印象を与えようとしている。その上、完全無抵抗主義を貫いた我が国も砲撃に参加したと嘘を書いて日本に濡れ衣を着せ、中国側死傷者数を60倍にもふくらませて、お家芸の白髪三千丈式誇張をやってのけている。歴史偽造の好例というべきだ。右のほかにも例えば胡華の「中国新民主主義革命史」によれば、「反動側の軍隊が逃亡するに際して、南京城内に暴行事件が発生した。その夜、英・米・日・仏・伊などの国の領事は、下関(シャーカン)の江上に碇泊中の列国軍隊に命令して南京城内を砲撃せしめた。中国軍民の死傷は2000余人であった」とあり、暴行掠奪をおこしたのは南軍ではなく北軍であるとして罪を北軍になすりつけ、やはり日本が砲撃に参加したことになって居る。同様に広く読まれている陳伯達の「人民の公敵蒋介石」では暴行略奪には触れず、「北伐軍が南京を攻め落とした時、米・英の軍艦が南京に向かって発砲し、終日砲撃をしつづけた」と記してあるという。米・英を悪者に仕立てるため「終日砲撃をつづけた」などという嘘まで作り上げて書いているわけだ(衛藤前掲論文)。これが現代中国の国定教科書の南京事件記述である。これが全中国の学校で一律に「歴史的事実」として青少年の頭に吹き込まれているのである。彼等が、どの様な対日感情を心に深く蔵して成長してゆくか、容易に想像できよう。〉と言われるのです。中村粲氏は、中国は青少年に嘘を教えていると、大変激しく怒っておられるのです。もちろん私も同様に思います。しかし私は、そのことよりも、中国という国(どこの国も多かれ少なかれ、そうなのだとは思うのですが)はこのようにして「歴史をつくりあげる」のかと、そのあまりの見事さに感心させられてしまいました。日本も少しくらいは真似をしたらよいのにと、もちろんこれは冗談ですが、そんな風に思ってしまったくらいです。それはともかく、この実例を参考にして、中国の「国定の歴史」とはどのようにして書かれるかということを、しっかりと学ばなければならないのだと思います。

ところで私がこの中村粲氏のご意見をあえて紹介させていただいたのは、実は、右のような私の意見を申し上げたかったからではありません。ここで私が気がついて注目したことは、「中国の国定の歴史」が南京事件における中国側の死傷者の数をどれも「2000人余り」としていることです。これはすべてに共通している「定められた数」であるようです。実は、すでに詳しくご紹介申しあげたように、菊池秀明氏のご本でも江口圭一氏のご本でも、そして『山川・世界史小事典』でも、中国側の死傷者の数は、すべて「2000人余り」となっていました。私は、それらの数が、中村粲氏の示された数(死者は12名、傷者は20名)とあまりに隔たっていること、そしてそのどれもがきちんと一致していることに不思議さを感じていたのですが、その理由がいまはっきりと分かったように思います。もう一つ言わなければなりません。『山川・世界史小事典』の「国民革命軍は、北方の軍閥軍を破り南京を占領。軍閥軍は敗走するが、その際大衆も加わりイギリス、アメリカなどの領事館、居留地を襲撃、略奪。」という記述ですが、なぜ被害者として日本の名が出てこないのかということと共に、襲撃・略奪を行なった軍隊が革命軍なのか軍閥軍なのか、そのどちらとも取れるような曖昧な表現になっていることに疑問を感じたのでした。これも「中国の国定の歴史」に対する配慮だと考えれば、よく理解のできることだと思うのです。つまり日本の歴史学は、基本的なところで「中国の国定の歴史」に依拠しているのです。あるいは配慮しているのです。そして、日本の歴史学者のほとんどは、そのことに何の疑問も感じておられないらしいということです。私は、これはきわめて深刻なことだと考えます。日本の歴史学の権威にかかわることです。これが私の誤解であればよいとは思うのですが、どうもそうは思えないのです。日本の歴史学界からの納得のできる、そして責任ある説明がなされることを、切に望むものです。

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