語り継ぎたい武士ベスト3

古今を問わず、武士の精神を貫いた人物を選んでいただきました

自由主義史観研究会会員各位
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◆上原 卓/元公立学校校長(『NIPPONの気概』他著書多数)
1.吉田松陰/よしだしょういん
(1830〜1859年)
幕末は嘉永6(1853)年の6月、アメリカ大統領の国書をもつペリーが、圧倒的な武力を後ろ盾に開国をもとめて我が国にやってきた。
かねてより我が国が西洋列強に呑み込まれることを憂慮し、これに対抗できる武力を備えなければならぬと考えていた長州藩士の吉田松蔭は、「敵を知り己を知れば百戦危うからず」
という考えをもってアメリカの国状を調査するために密航しようとした。しかし、失敗する。そして、海外渡航という国禁を犯そうとした罪に問われ、松蔭は獄につながれた。
その後、松蔭は禁固の身のまま自宅に松下村塾という私塾を開く。そこで松蔭は、「日本の中心は幕府ではなく天皇を戴く皇室である」という思想を説いた。この思想は、やがて倒幕運動を支える勤皇思想に発展する。時代の一歩先を歩んだ松蔭は、守旧的な幕府から危険視され、刑死した。
私が松蔭に惹かれるところはたくさんある。特にその生死観には人の魂を奪う不思議な魅力がある。例えば、刑死を覚悟した獄中で松蔭が弟子の高杉晋作宛てに書いた手紙の一節に次のようにある。
「死んで己の志が永遠になるのなら、いつ死んでも構わない。生きて果たせる大事があるのなら、いつまでも生きたらいいのである。人間というのは、生死にこだわらず、為すべきことを為すという心構えが大切である」
生死を超越し、日本という 「公」 のために己の為すべきことをひたすら為し続けて斃れた松蔭に、私は畏敬の念を抱いている。
《身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも 留置まし大和魂》 … この辞世の句は、よく知られている。
【お勧めの文献】
古川 薫 『松下村塾 吉田松陰とその門弟たち』 偕成社
阿部博人 『はじめに志ありき 明治に先駆けた男・吉田松陰』 致知出版社
『留魂録』 (吉田松陰が獄中で記したもの。インターネットで全文を検索できる)
2.伊藤博文/いとうひろふみ (1841〜1909年)
明治4年、伊藤博文は明治政府の要人のひとりとして、岩倉具視、木戸孝允、大久保利通たちとともに米欧視察をした。伊藤たちは西洋社会を見て回り、その文明の特徴をくまなく知った。そして、日本はほぼ40年後に西洋文明のレベルに達することができるだろうという見通しを持った。伊藤たちは、日本の最大の課題が、江戸時代の末に西洋列強と結んだ不平等条約の改正であることを共通に認識した。
明治政府により教育、通信、鉄道、貨幣、銀行、為替、電信などの制度づくりが着々とすすめられた途次において、大久保、木戸、岩倉らは次々と倒れていった。後に残った伊藤は、内務卿、総理大臣、貴族院議長、枢密院議長の任について司法、立法、行政の各分野で獅子奮迅の活躍をしたのである。
ところで、条約改正を成就させる眼目は、日本が西洋並みの近代的な憲法をもっていることを西洋諸国に認知させるところにあった。伊藤は、明治15(1882)年、憲法モデルを探すために単身ヨーロッパに渡った。そして、王権重視のドイツ型憲法、民権重視のフランス型憲法などを調査し、そのいずれにも長所と短所があることを学んで帰った。伊藤は、法律に詳しい伊藤巳代治、井上毅、金子堅太郎と寝食をともにしながら憲法の草案づくりに励んだ。こうして、伊藤たちの草案は枢密院における審議をへたのち、明治22(1889)年に大日本帝国憲法となって公布された。大日本帝国憲法は、西洋憲法の良所をとりいれつつ我が国の歴史伝統を大事にする憲法であった。東洋に初めて誕生したこの近代憲法は、西洋諸国においても高く評価された。かくて日本は、条約改正のための最大の関門をくぐり抜けたのである。伊藤は、明治42(1909)年、満州を訪れた帰路、ハルピン駅で韓国人安重根に狙撃され、68年の生涯を終えた。
私は、近代日本の骨格づくりに伊藤博文ほど貢献した政治家をほかに知らない。伊藤博文は、日本という「公」のために身命を賭したサムライであった。
【お勧めの文献】
勝本淳弘 『伊藤博文‐アジアで最初の立憲国家への舵取り 』 明治図書出版
古川 薫 『伊藤博文 明治日本を創った志士 』 小峰書店
三好 徹 『史伝 伊藤博文 〜上下巻 』 徳間書店
3.阿南惟幾/あなみこれちか (1887〜1945年)
大東亜戦争が日本の敗色濃厚となった昭和20(1945)年の4月、枢密院議長鈴木貫太郎に大命がくだり、内閣が組閣された。陸軍大臣に任命されたのは陸軍大将阿南惟幾であった。鈴木首相はこの戦争を早く終結させたいと思っていた。しかし、その本音を隠していた。本土決戦を主張する陸海軍統帥部、特に陸軍の反発を買うと内閣が陸軍によって潰され、連合国と和平交渉をする日本側の当事者が不在のまま、日本じゅうが破壊蹂躙される悲劇的な結末になる。そのことをよく知っている鈴木首相は、真意を隠して終戦の機会を密かに窺っていたのである。
阿南陸相は陸軍の徹底抗戦派の頭目とみられていた。事実、7月末に米・英・支那によりポツダム宣言(日本に対する降伏の勧告書)が出されたときに、阿南はその受諾に強く反対した。
8月に入り、6日に広島への原爆投下、9日に長崎への原爆投下とソ連の参戦が加わった。9日の夜から開かれた御前会議においても阿南は降伏することに反対した。鈴木首相は天皇のご聖断を仰いだ。天皇の御意を奉戴して10日に開かれた閣議でポツダム宣言の受諾が承認された。14日、阿南陸相と参謀長たち陸軍首脳の署名の入った司令書が公布された。そこには、「陸軍はあくまでも聖断に従って行動すべし」と書かれていた。土壇場にきて、阿南は主張を変え徹底抗戦派を裏切ったのであろうか。
実は、阿南もまた鈴木首相と同様に、戦争終結の機会を窺っていたのである。しかし、初めから和平の意思を表明していたら、陸軍の徹底抗戦派がクーデターを起こし、その結果、内閣が倒されることを阿南は分かっていたのだ。阿南がいかにも武士らしいと思うのは、ビルとビルの間に張られたロープの上を風に揺らされながら渡るような腹芸のできる肝っ玉を持っていたところである。
終戦の玉音放送の行なわれる8月15日の早朝、阿南は陸相官邸において自刃した。阿南は半紙2枚に遺書を残していた。1枚には「一死 以て大罪を謝し奉る」とあり、もう1枚には「大君の深き恵に浴し身は言ひ遺すへき片言もなし」とあった。
【お勧めの文献】
角田房子 『一死、大罪を謝す 陸軍大臣阿南惟幾』 新潮社
沖 修二 『阿南惟幾伝』 講談社
◆森 一郎/高校教員(社会科教育、教育社会学研究者)
1.北条時宗/ほうじょうときむね
(1251〜1284年)
鎌倉時代、日本に対して「我が国に従うか、それとも戦争するか」というモンゴル帝国(後の元)の無礼な手紙に対して、当時幕府の執権をしていた18歳の若き北条時宗は、ひるむことなく、国を護るため戦うことを決意したのである。元からの2度の侵略(文永の役、弘安の役)に対して、時宗は九州博多湾に20kmにわたって石の砦を築くなどし、防衛に努めた。また配下の武士もよく戦い、暴風のお陰もあって元軍を撃退することができた。
時宗が亡くなったのは、二回目の弘安の役から僅か3年後、34歳の時である。時宗はその短い生涯のほとんどを、元との戦いに明け暮れたのである。時宗は全精力を使って国を護ったのであり、武士の鑑、日本の恩人と言っても過言ではない。
モンゴル帝国(元)のような大国であっても、付き合う場合はあくまでも対等であるという強い意識が、時宗にはあったと思われる。腰の引けた状態で向かうならば、先に侵略を受けた高麗のような、骸骨が野を覆うという悲惨な状態が待っていることも、時宗にはわかっていたであろう。だからこそ、元からの使者を切りつけ、我が国の姿勢を見せたのである。これは聖徳太子の隋に対する姿勢とも共通する。主権という言葉は、もちろん当時はなかったであろうが、時宗は、自分の国は自分で護るという強い主権意識があったのではなかろうか。であればこそ、強い態度にでることが可能となったのである。その意味で現在の日本の政治家は、近隣諸国に対して何と腰が引けていることか。時宗の姿勢に学ぶべきである。
【お勧めの文献】
永井路子他 『時宗の決断 国難・蒙古襲来にどう対処したか』 中公文庫
奥富敬之 『北条時宗 史上最強の帝国に挑んだ男』 角川選書
童門冬ニ 『北条時宗の生涯』 三笠書房
2.佐久間 勉/さくまつとむ (1879〜1910年)
明治43年4月、国産第1号と言われる第六潜水艇が広島湾沖で訓練中、通気筒から海水が入ったことにより沈没し、佐久間艇長以下14名全員が殉死するという事故が起きた。
31歳の佐久間艇長は、事故発生から意識がなくなる死の直前まで、司令塔からもれる僅かな光を頼りに事故の経過を手帳39ページにわたって詳細に遺書とし残している。「小官ノ不注意ニヨリ陛下ノ艇ヲ沈メ部下ヲ殺ス 誠ニ申訳無シ」で始まる遺書には、乗員全員が死ぬまで持ち場を離れず、立派に本務を果たしたことが書かれ、また潜水艇の将来やさらに乗員の家族の今後のことについても言及しており、最後まで冷静沈着に行動し、その責任を果たしたことが伺えるのである。
佐久間艇長の言動は、戦前の修身の教科書にも「沈勇」として紹介され、軍歌にも取り上げられ、さらにイギリスの新聞『グローブ』紙は「この事故で日本人は体力上ばかりでなく、道徳上、精神上においても勇敢であることが証明され、これは世界にも例がない」とその行動をたたえている。また今も生家(福井県三方町)の近くの記念館には、「沈勇」の人としてだけでなく、両親や母校に対する優しさや質素な生活ぶりがわかる資料が展示されている。
かつてイギリスの潜水艇が同じような事故が起こした時、乗員は少しでも助かりたいがため、出口のハッチ近くに、折り重なって死んでいたといわれている。第六潜水艇の場合、艇長以下全員が全て整然としてもち場を離れず息絶えていた。これは乗員一人一人の冷静さ、責任感の強さは勿論のこと、その人たちを束ねていた佐久間艇長のリーダーシップに負うところが多いように思われる。勇気、冷静沈着、責任そして部下に対する愛情は、武士道そのものではないだろうか。
【お勧めの文献】
TBSブリタニカ編集部 『佐久間艇長の遺書』
TBSブリタニカ
岡田幹彦 『日本を護った軍人の物語』 祥伝社
3.乃木希典/のぎまれすけ (1849〜1912年)
東郷平八郎とともに日露戦争の雄とされるが、明治10年に連隊長心得として参戦した西南戦争では、連隊旗を薩摩軍に奪われるという屈辱を味わい、後々までこれを忘れることがなかったといわれている。しかし日露戦争に勝利した後は、敵将ステッセルに帯剣を許し一緒に写真撮影をしたり、またステッセル処刑の取りやめをロシア皇帝に嘆願するなどしたりして、勝利した後は敵に対しても寛大な扱いをして深い愛情を注ぐなど、これぞ武士道精神だと外国人からもその言動をたたえられた。こうした乃木の武人としてだけでなく、人格者としての評判により、ロシアに苦しめられたトルコやポーランドでは息子や孫に「ノギ」という名前を付けたり、「ノギ通り」という通りもできた。
日露戦争後は、第10代の学習院院長として質素な生活を貫いた。大正元年、明治天皇の後を追った乃木夫婦の殉死は、その壮烈な責任感とともに、当時の日本国民に大きな衝撃を与えた。
乃木希典には「責任」、「清廉」、「けじめ」、「忠義」の外、「奢りの戒め」も体現しているように思われる。日露戦争時、家族宛てに手紙を書くときも軍用の用紙は一切使わず私用の半紙を使ったり、また戦後久留米での演習の時、宿舎にしていた水天宮の神主真木家では座布団を出されても「真木先生は明治維新に功績のあった方、乃木ごときものが座布団を使うわけにはいかない」といって座布団なしで正座していた、と言われている。こうして高い地位にあっても奢らず高ず、まさに「清廉」と表現に値する生活をしていたのが乃木希典である。
【お勧めの文献】
松田十刻 『乃木希典「廉潔・有情」に生きた最後の武人』
PHP文庫
福田和也 『乃木希典』 文春文庫
岡田幹彦 『乃木希典 高貴なる明治』 展転社
◆石部勝彦/元高校世界史教師(日本近現代史研究者)
1.富樫左衛門/とがしさえもん・富樫泰家/とがしやすいえ
(鎌倉時代)
歌舞伎の「勧進帳」は昔から多くの日本人に愛されてきた物語です。この物語の主役は武蔵坊弁慶だと思われますが、私は、関守の富樫左衛門の心情に強く惹かれるものを感じます。鎌倉の源頼朝は奥州平泉に向かおうとする弟の義経を捕えようとして、その道筋に多くの関所を作らせました。加賀・安宅の関の関守が富樫左衛門でした。富樫はそこを通ろうとする山伏の一行を変装した義経たちではないかと怪しみます。ところがその先頭の弁慶が、自分達は東大寺修復のための寄付を募る勧進をしている本物の山伏だと主張します。そこで富樫は意地悪をしようとしました。勧進のためならば勧進帳を持っているだろう、それを読み上げよと命じたのです。そこでうろたえる弁慶を捕縛しようとしたのでした。ところが弁慶は白紙の巻物を掲げて堂々と勧進の趣きを読み上げたのです。富樫は弁慶のその振舞に感じ入りました。ところが部下の一人が一行のうちの小男が義経ではないかと訴え出たのです。無視するわけにはいきません。そこで富樫が弁慶にそれを言うと、やにわに弁慶はその小男を、お前が愚図だから怪しまれるのだと言って棒で殴りつけたのです。家来が主君を棒で殴るなどありえないことでした。富樫はまたしてものこの弁慶の振舞に心を動かされたのです。そこで富樫は一行の関所通過を許すことにしました。頼朝からの恩賞も放棄したのです。しかも富樫は、自分が義経に気付いたことを弁慶に悟らせないように振舞いました。それを知られては弁慶の名誉を傷つけることになるからです。また弁慶もその富樫の心遣いに気がつかないふりをして立ち去りました。感謝などしたら富樫の立場を失わせることになるからです。二人は分かりあっていました。私はこの二人の武士と武士との心の通い合いに感動するのです。
2.三浦梧楼/みうらごろう (1846〜1926年)
三浦梧楼は生粋の軍人でしたが、日清戦争終結直後の明治28年8月、突然外交のベテラン井上馨に代わって朝鮮公使に任ぜられました。当時の朝鮮では、王妃の閔妃がその一族とともに、夫の高宗をないがしろにし、その父親の大院君を排除して独裁的な権力をふるっていました。その直前まで朝鮮の親日派の勢力が日本の協力を得て朝鮮の近代化へ向けての改革に取り組んでいましたが、三国干渉に屈服した日本の姿を見て閔妃は突然日本を蔑視するようになり、親日派を排除し、ロシアの勢力をとりこんで朝鮮をその保護の下に委ねようとしていたのです。日清戦争は、幕末以来日本が最も恐れていたロシアが朝鮮半島を支配するようになることを防ぐために、そこを支配していた清国を打ち破り、朝鮮を親日的な近代的独立国になってもらうために戦われたものでした。それが、その結果朝鮮がロシアの保護下に入るということは、日本としてはどうしても許せないことだったのです。井上馨でも閔妃を説得することはできませんでした。そこで三浦が選ばれたのでした。三浦は外相の陸奥宗光に自分に何をせよと言うのかと問い質しました。しかし陸奥は何も答えません。「俺の腹を読め」というのです。三浦は自らの責任で何事かを為さねばならぬと覚悟しました。三浦がソウルに赴任すると、朝鮮側にも閔妃を倒さなければならぬと考えている勢力のあることを知りました。李周會将軍が中心人物でした。三浦はこの勢力と手を結び、日本人が助太刀をして閔妃を倒す計画を立てました。ところが、いざという時に朝鮮側はビビってしまったのか誰もやって来ません。結局日本側だけでやることになってしまったのでした。国際的な大問題になりました。日本政府は慌てて三浦以下40余名を召喚し広島の獄に送りました。これを知った李周會将軍は大変に悩みました。彼は三浦に罪をなすりつけるわけにはいかないと、自分が首謀者であると名乗り出ました。彼は2名の仲間とともに直ちに処刑されました。三浦は獄中でこのことを知り痛哭したそうです。真犯人が判明したので三浦たちは釈放されました。しかし三浦は多くを語りませんでした。言えば多くの人に迷惑をかけることになるからです。黙って罪を一人でかぶる、これも武士の一つの生き方だと思うのです。
【お勧めの文献】
名越二荒之助 『日韓2000年の真実』
株式会社国際企画
3.明石元二郎/あかしもとじろう (1864〜1919年)
明石元二郎は後方撹乱という分野で日露戦争の勝利に決定的な貢献をしました。まだ戦力的には余裕のあったロシアが戦争をやめざるを得なくなったのは、「血の日曜日」を代表とする革命運動が首都ペテログラードを中心に燃え広がり、その鎮圧に大わらわになったためですが、その革命運動を陰で操ったのが明石でした。ドイツ皇帝ウィルヘルム2世をして、「明石一人で、大山巌率いる20万の日本軍に匹敵する戦果をあげた」と言わしめたものです。駐ロシア日本公使館付武官であった明石大佐は、開戦と同時にヨーロッパ各地を回り、ロシアの革命家たちと接触しました。当時四分五裂して対立していた革命家たちでしたが、彼は参謀本部から与えられた100万円の工作資金をふんだんにばらまいて彼らを団結させたのでした。レーニンが「祖国の裏切り者になる」と躊躇したのに対して、明石は、「社会主義革命とは、とどのつまり帝政ロシアの打倒、世界革命、人類の解放ではないのか。祖国うんぬんするとはいままでの主義主張とは矛盾することはなはだしい。ましてレーニンはタタール人であり、祖先はロシアに支配され続けていたのではないか。タタールのみならず、ロシア帝国に支配されているあらゆる少数民族の解放こそ、社会主義革命のとるべき筋道ではないのか」と迫り、さしものレーニンもこの東洋からやってきた最後の黒田武士、明石の筋道論に返す言葉もなく、黙ってうなずき、二人は固く握手を交わしたのだそうです。この明治の軍人の教養の深さにも驚かされますが、明石はこの自由に使うことを任された巨額の資金をびた一文私的には使いませんでした。また、東京の明石の私宅は大変に粗末な古家で、夫人がその修理を依頼すると、何と明石はそれを認めなかったのです。大金を預かる身で、疑われることを嫌ったのでしょう。この公私のけじめの厳しさにも感心させられます。これも武士の精神の一つの表れだと思うのです。のち、明石は大将となり台湾総督を務めます。その時の業績についても触れたいのですが紙数が尽きました。彼は台湾の土になることを望み、遺言で台湾に埋葬されました。明石は今でも当時を知る台湾人から尊敬され、感謝され、愛されているそうです。
【お勧めの文献】
黄 文雄 『命がけの夢に生きた日本人』 青春出版社
◆斎藤信二/出版業(『漁火とともに』、『結びあう心』著者)
1.ジョン万次郎・中濱万次郎/なかはままんじろう
(1827〜1898年)
文政10(1827)年、土佐の漁村で漁師の子として生まれた。9歳で父を亡くし14歳のとき仲間5人で漁に出て時化にあい漂流。アメリカの捕鯨船ジョン・ホウランド号に救出され運命が一変する。4人はハワイのホノルルに残り万次郎は捕鯨を手伝いながらアメリカに渡る。船長の行き届いた配慮のもと英語の勉強を始め、捕鯨、造船、航海術、西洋文化、風習などを学ぶ。当時の日本は鎖国、たとえ遭難であっても厳しく罰せられた。その中で帰国を果す。時はペリー艦隊がやってくる前年。帰国までに学んだ西洋の知識を徳川幕府、志士たちに提供するとともに西洋との橋渡し役をこなす。遣米使節団の通訳として咸臨丸にも同乗し、時代の変わり目で大きな役割を果した。
仲間5人の中で最年少だった万次郎が、なぜ国の大事に役割を果たすことができたのか。その結果ではなく万次郎の日々の生き方に強くひかれる。
今は過去の結果であり、今は将来に繋がっていると考えている私は、万次郎はそのいい見本ではないかと思っている。万次郎の経験は、その時点で判断すれば逆境である。父を早く亡くし漁に出ては遭難する。救出されたのは外国船。帰国するにも幕府の方針で命の保障はない。仲間を日本に連れて帰るお金を得るために治安の悪い金鉱でも働いている。
しかしその時その場で万次郎は、家のため、船長のため、仲間のためという、自分以外の人のために一所懸命に働いた。それが結果として国の大事に役立った。まさに他のために今を生きた見本である。
【お勧めの文献】
津本 陽 『椿と花水木』 新潮文庫
2.森 信三/もりのぶぞう (1896〜1992年)
明治29年愛知県生まれ。3歳の時に森家の養子となる。伯父の意見もあって師範に進む。生涯の師・西晋一郎先生と出会う。15歳の頃から立腰を実践し、30歳に入って「人生二度なし」という真理と「真理は現実のただ中にあり」という学問観を得る。一貫して教育関係に身を置く中、とりわけ講演行脚に力を入れ、学童、学生、そして先生に人生の教えを直接語りかけた。延約13年間実施している。指導を受けた先生は教えを生かし荒れた学校を幾つも再生している。著述にも尽力し、語録はあらゆる分野の人々に即実践の言葉として役立っている。平成4年逝去、享年97歳。
二度とない人生をどう生きるか。そう自分に問うて生きよ。生前、一度お目にかかったことのある私は、常にそう言われているような気がしている。
立腰を実践する幼稚園を見学したことがある。子供たちの集中力は凄い。大人顔負けである。しつけの三大原則「1.朝の挨拶をする子に、2.『ハイ』とはっきり返事のできる子に、3.ハキモノを脱いだらそろえる」は家庭で学校で実践すべき重要項目である。
この大事なところは親が大人がまず実践してみせること。しかしそれが難しい。「教育とは流水に文字を書くような果てない業である。だがそれを巌壁に刻むような真剣さで取り組まねばならない」。
これらの思想、実践論はどこから生まれたのか。ただひたすら、一度の人生を立派に生きて欲しいと願っていたからではないか。私心なきことが人の心を動かす。そう考えたとき、まさに公に生きた教育者の鑑と言っていい。
【お勧めの文献】
森 信三 『終身教授録』 致知出版社
3.宮本邦彦/みやもとくにひこ (1953〜2007年)
平成19(2007)年2月6日、東武東上線ときわ台駅、踏切内に入った女性を助けようとして殉職したおまわりさんである。事故後、近所の子供たちから励ましの手紙や千羽鶴などが交番に届けられ、殉職後には近所の人達が中心になって、宮本警部の誠の精神と勇気ある行動を忘れてはいけないと「誠の碑」を常盤台交番の前に建てた。なぜそこまで多くの人達が動いたのか。
宮本警部の死をきっかけに、私達が忘れかけている世のため人のためという公の精神の大切さを、感じ取ったからではないだろうか。
自らの命を失うという宮本警部の働きは、とても真似できるものではない。しかしそこだけに目を向けてはいけない。大事なのは、なぜそのような行動がとれたのか。その生き方を自らの生き方として学ぶことではないか。
ドジで運動嫌いだった宮本さんの少年時代。警察学校に入って自転車も満足に乗れなかった。卒業まで剣道の初段も無理と思われていた。交番勤務を希望した宮本さんは卒業アルバムに「誠実・誠心誠意」と書いた。地域の人達が安心して暮らせるようにと職務に励み、地域の人達から「宮本さん、宮本さん」と慕われるようになった。
少年時代10年間新聞配達をしている。「邦彦、伏してぞ止まんだぞ」とお父さんは励ます。辛い時、すぐに諦めるのではなく、もう一歩努力して前に出よという教えである。この教えは宮本さんの息子さんにも受け継がれている。
誠意をもって公に尽す。宮本警部はその大切さを身をもって示してくれた。
【お勧めの文献】
山口秀範・竹中俊裕 『伏してぞ止まん‐ぼく、宮本警部です』
高木書房
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