記念講演
武士の性格と日本の歴史の特色

※この記事は自由主義史観研究会全国大会で行われました講演の内容です。

尾藤正英(東京大学名誉教授)/文責・藤岡信勝
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◆武士の公共的精神と明治維新
武士について話をするようにとの藤岡先生からのご依頼でございます。先ほどの飯島先生の授業にもございましたが、武士の特色の一つに公共的精神があります。私もかつて「明治維新と武士」という論文を書きました(『思想』1985年9月号)。もとになりましたのは、1984年に日本で開かれた国際東洋学会議での報告です。この会議は日本でやるのですから、日本のことを一つぐらいやらなければおかしいということで、私が「武士」と「神道」という二つのテーマを立ててはどうかと提案しました。この二つは日本にしかないものであります。日本の歴史や文化の大きな特色をなすものでもあります。
武士については東京でやりまして、神道については京都でやるということになりました。その頃まだジョン・ホールさんがお元気な頃で、このテーマについて褒められました。その時に私が、東京の会議で報告したのが「明治維新と武士」という論文の内容でした。「公論」(パブリック・オピニオン)と武士とを結びつけるという研究は、アメリカでは行っていますかと質問しましたら、それはないということでした。新しい研究であったかも知れないと思いました。それがまさか、藤岡先生を通じて教育の方面にも影響を与えているとは全く思っておりませんでした。
明治になって実行したことは何かというと、まず武士の特権を廃止して、武家政治をやめ、領地支配をやめ、身分差別を廃止し、四民平等にしたのです。こういったことを急速に実行していくわけです。武士が独占していた武力を徴兵制によって国民全体に広げていくこともしました。
それに対して、明治10年の西南戦争に至るような反対運動は起こるのですが、それは決して江戸時代に戻そうという運動ではないのですね。そういう復古運動ではなくて、大久保利通らのやり方が変だという批判です。特に刀を差すのを禁止する廃刀令に反対して暗殺などが起きたわけです。それは間もなく収まりまして、特に西南戦争以後は武力ではなく言論の場で争われるようになりました。自由民権運動の初期に中心になっていたのはほとんど士族でありました。藩閥政府のやり方は批判しましたが、それは古い特権にしがみつくということではありませんでした。こうして明治時代の繁栄というのがもたらされます。
◆ヨーロッパの封建領主との違い
私どもはそういう経過を事実として知っているものですから何とも思わないのですが、私が大学の教師をしておりました時にイタリアから来た女子学生と話をしておりましたら、不思議でしょうがないと言うのです。封建領主が自分の特権を簡単に捨てるということは考えられないのであります。ヨーロッパの封建制と日本の江戸時代の社会を「封建制」という言葉でよく括ってしまいますが、かなり性質が違うのではないか。
先ほどの討論の中で、ヨーロッパでは国というのは国王の私有物であるという話が出ました。フランスのルイ14世は「朕は国家なり」と言ったという話がありますが、それと同じような意味で、国家というものが私有財産としていろいろな人の手に渡っていく。そういう形で、オーストリア継承戦争、スペイン継承戦争といったややこしい戦争がヨーロッパの中で起こっているのであります。封建領主というものも自分の所有地をベースに成り立っているのです。ゲルマンの慣習法によりますと、1年と1日その土地を占有しているとそれはその人の所有物になる。自分の所有権や支配権を領主は簡単に手放すものではない。だから日本の明治維新は特別といってよいのですが、日本人自身もそのことを自覚していない。
現在でも、明治維新は妥協的な改革であって、古い封建制度というのがそのまま残ってしまったところがあり、明治時代は半分封建制だと言われたりします。武士が明治時代の指導者にもなっていますから、連続していると言えないこともありませんが、やっていることは非常に改革的である。人が一緒だから改革の内容までダメだというのはちょっとピントがあっていないのではないかと思います。公共的精神に立って自分たちの利益にとらわれず、日本の国のために特権を放棄する。その公共的精神とはいったいどこから出てくるのかというのが問題であります。その歴史的背景や土台はあまり考えられていない。
◆イエの形成と近世社会の成立
武士の歴史は12世紀あるいはもっと早く11世紀から始まっていますが、11・12世紀の武士と15世紀くらいからの武士、応仁の乱以後の武士はそれ以前の鎌倉幕府や足利幕府時代の武士とはかなり性格が変わってまいります。単に下克上で勢力が入れ替わったというようなものではなくて、社会全体の構造が変わってくるのです。農村では村とか惣とか言いますが、惣というのは村が集まった少し広い地域社会のことです。これが一つの自治体になるわけです。その自治体を代表者が治めるという形は全国的に出来上がってきます。
もちろんそれらの間には争いが起こりますし、外部からの勢力が入ってきたときにそれを防ぐのは困難でありますから、堀がつくられた。堀がつくられたのは古くは弥生時代ですが、それは3世紀頃の話ですね。それ以後は無くなって古代国家が出来る。古代国家の最後の段階が荘園制であって、荘園制が解体した後に古代国家とは違う別の社会組織が生まれてきます。その違いはどこかと言うと私は「イエ」の形成だと思います。
イエというのは古代からあると言えばあるのですが、私たちが知っているイエの集まりとしての村、あるいはイエの集まりとしての都市、というのは意外に新しいのです。15世紀から16世紀頃のことですね。イエの集まったのが、それが村であり惣であり町であり、そのうちの大きいものが都市、いわゆる自治都市になるのです。
荘園制が古代国家の最後の段階ですが、それを守っていた武士団というのも荘園制とともに滅びていきます。それに対して農村の中の武力を持った人たちを集めて新しい武士団がつくられていきます。その人たちは武士でもあり農民でもあるという中間的な人たちですが、その後いわゆる兵農分離が行われます。
◆役の体系としての社会
兵農分離の基準となるのは、軍役です。軍役というのは戦争のときに武装し、家来を連れて主君のもとに出て行くということですね。戦争に行くということは手柄を立てる可能性もあれば、死んでしまう可能性もあるわけで、一つの賭と言えます。軍役を負担するのが武士であって、負担しないのが農民というわけです。その他に町人といった身分も出来ます。役を負担する単位がイエです。軍役を負担するイエが武士のイエであって、租税を負担するのが農民のイエである。それが兵農分離であります。
都市であれば公役(くやく)というのがあって、職人ならばそれぞれの仕事に応じた義務があるわけです。魚屋の役は定期的に江戸城に魚を納入するという義務があるわけです。無償行為と言えば無償行為です。そういう労働の分担というのが近世の新しい姿であって、それによって村や町は自分の力で防衛しなくても武士団が守ってくれる。そういうことをやったのが戦国大名です。武田信玄にしても毛利にしても、みなそうです。
先ほど戦国大名は民衆を支配する、厳しく抑えつけるというイメージがあるという話がありましたが、むしろ逆でありまして、有力な戦国大名の地域の人々は今でも戦国大名を懐かしく慕っているという関係があります。山梨では信玄と呼び捨てにすると怒られる。信玄公と呼ばなければならないというようなことがあります。戦国大名というのは民衆から憎まれるというよりも慕われる存在であって、必要なものだったのです。地域の平和を維持し、産業を発達させる。そういうことをやるのが成功した戦国大名であります。
◆武家社会と村の組織の同型性
この時期に武士と農民が分かれ、それぞれの組織をつくっていく。武士は武士団という組織をつくり、農民は村や惣をつくり、町人は都市をつくりといったぐあいで、新しい社会が成立する。江戸幕府の時代が270年続いたというのは、決して強い力で抑えつけたからではなくて、その支配が合理性を持っていたからだと思います。
合理性の根拠は役の組織にあります。各村に行政組織がありまして、それを担っているのが「おとな」と言われる人です。当て字としては「乙名」というのが一番音を表現しているのですが、「老」とか「長」とかいう字を書いて「おとな」と呼ばせている場合もあります。未婚の20歳前後の男の人は、若衆と呼んだり若者と呼んだりします。この人たちは村の仕事の実働部隊でありまして、村の行事を実行するのはおとなと若衆でした。そういう慣習が江戸時の村にはありました。
村の組織は武家の社会と無関係であるかというと、そうでないところが面白いのであります。江戸幕府で将軍の次に権力を持っているのは老中ですね。老中が相談をしながら合議制で物事を決めていきます。老中の老というのは、おとななんですね。中というのは複数です。連中というのと同じです。大人たちという意味で老中なんです。老中の下に若年寄というのがいます。大人と年寄も同じ意味で使われる言葉です。農民の社会と武家の社会が同じ「おとな」という呼称を持っているのが面白いところでして、それ以前の室町幕府では管領、鎌倉時代には執権、と言いました。管領とか執権というのは漢字の字面から意味がわかると思いますが、老中や若年寄というのは意味が分からない。村の自治組織の名称をそのまま日本全国の統治機構の名称に使うのですが、原理的には同じものが一方は武士になり、一方は農民になるのです。
◆公共的精神の社会的基盤
公共的精神という問題は決して武士たちだけのものではありません。村の組織が出来て、村をみんなで共同して運営していく。また京都にしても大阪にしても町年寄というのがいて町の自治を運営しています。みんなで協力して村の自治を担っていくところに、公共的精神というものが生まれる社会的基盤があるのではないか。そして日本全体の中でも自分たちの役割を考えるということが江戸時代にはあったと思います。
そういう自治組織の集まりの中から公共的精神というものが生まれてきたんだと思います。たとえ小さな藩の一武士、あるいは農民であったとしても、日本全体の中の一部であるという意識はみんな持っていたと思います。明治維新以後、天皇陛下の国だと言って教え込んだということを強調する歴史家もいますが、そういう単純な宣伝で日本中の人々が明治政府に協力することはありえないので、それ以前から特別な教育をしなくても、自分たちは日本全体の中のある地域の責任を負っているという意識があって、それが公共的精神と私たちが呼ぶものにあたるのではないかと思います。
日本人は家族の中で一番小さい者を基準にして、お兄ちゃんとかお姉ちゃん、お父さん、お婆ちゃん、といった呼び方をします。要するに役割で呼んでいるんです。名前で呼び合ったりしないんですね。役割で人間関係を表現するということは、同時に自分がその役割にふさわしい生き方をするということを前提にしているわけです。お兄ちゃんならお兄ちゃんらしく、お母さんは母親としての役割を果たす。家庭の中でも役割によって呼び方が変わるということなのです。家の中で個々の役割がちゃんと決まっておりまして、その役割を果たすことが家族の一員となるということなのです。これが伝統的な日本の家族のあり方であり、この家の中で養われる人間の精神と言いますか、心のあり方だったと思います。
武士には武士の役割があって、それを果たさなければならない。農民には年貢を納めるという役割がある。逆に年貢を無闇に増やされたら抵抗してもいいわけです。役割に応じて社会の中での自分の生き方というのが決まってくるのです。ということは全体を常に意識して、自分の生き方を考えていくということだと思うのです。こう言うと自主性のない人間だと思われるかもしれませんが、日本社会の中では役割人間として生きるということが、公共的精神であったのだと思います。
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