明治に生きる会津武士道

義和団の乱で日本人の名を世界に高めた、柴 五郎中佐


服部 剛(横浜市公立中学校教諭)

1900年「義和団の乱」の時です。この混乱に乗じて、清国の権力者・西太后は首都・北京在住の外国人を人質にとって、諸外国に宣戦布告しました。北京の公使館区域は、清国軍の包囲・攻撃を受けて、4000人以上の外国人たちが百日間の籠城を強いられました。この時、北京に公使館を開いていたのは英・米・仏・露・独・墺(オーストリア)・伊・蘭・ベルギー・スペインの欧米十カ国と日本でした。各国の艦隊からは救援の部隊が北京に向かっていましたが、途中、清国軍に行く手をはばまれて退却していました。そのため、各国は連合して籠城戦を戦っていたのです。

この籠城戦で、日本公使館の武官「柴 五郎」陸軍中佐を指揮官とする海軍陸戦隊とボランティアの義勇兵は、人数こそ少ないものの、最も広く重要な区域を死守していました。  

籠城戦が長引くにつれて、柴中佐の指揮の見事さ、日本軍人の規律正しさや勇敢さ・粘り強さに対する賞讃と信頼の声は、だんだん連合国の将兵・外交官・居留民の間に広がっていきました。柴中佐は英語とフランス語を自在にあやつって、連合軍の指揮官たちの意思の疎通をはかり、戦闘計画の食い違いが起こると、皆は柴中佐の判断に従ったのです。イギリス兵は世界で最も勇敢で強いと自負し、実際にその通りでしたが、彼らも「日本人は我々以上だ」と認めざるを得ませんでした。

『北京籠城』の筆者P・フレミングは次のように書いています。 「日本軍を指揮した柴中佐は、どの士官よりも有能で経験も豊かであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。当時、日本人とつきあう欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、皆の目に映るようになった。日本人の勇気・信頼性・そして明朗さは籠城者一同の賞讃の的となった。数多い記録の中で、一言の非難を浴びていないのは、日本人だけである」  

あるイギリス人の義勇兵はとても人間業とは思えない光景を見たと言って、こう語っています。

「隣の銃眼に立っている日本兵の頭部を銃弾がかすめるのを見た。真赤な血が飛び散った。しかし、彼は後ろに下がるでもなく、軍医を呼ぶでもない。『くそっ』というようなことを叫んだ彼は、手ぬぐいを取り出すと、はち巻の包帯をして、そのまま何でもなかったように敵の看視を続けた」

「また、戦線で負傷し、麻酔もなく手術を受ける日本兵は、ヨーロッパ兵のように泣き叫んだりはしなかった。彼は口に帽子をくわえ、かみ締め、少々うなりはしたが、メスの痛みに耐えた。しかも彼らは沈鬱な表情一つ見せず、むしろおどけて、周囲の空気を明るくしようとつとめた。日本兵には日本婦人がまめまめしく看護にあたっていたが、その一角はいつもなごやかで、ときに笑い声さえ聞こえた」

「長い籠城の危険と苦しみで欧米人、とりわけ婦人たちは暗かった。中には発狂寸前の人もいた。だから彼女たちは日常と変わらない日本の負傷兵の明るさに接すると心からほっとし、看護の欧米婦人は皆、日本兵のファンになった」  

一方、救出に向かった日本派遣軍の司令官・福島安正少将はじめ、日本兵もずば抜けて勇敢に戦い、連合軍将兵の舌を巻かせました。北京に住む中国人たちは日本軍を「義軍」として讃え、競って日本軍の占領下に入ってきました。日清戦争での日本軍将兵の規律ある行動は、広く言い伝えられ、まだ忘れられていなかったのです。    

連合軍の攻撃が成功して、北京が解放された後のことです。ここでも柴中佐による民政・治安の維持はすばらしいものでした。清国兵は追い払ったものの、暴徒や略奪者が横行し、北京は死んだ町となっていました。その中で、いち早く治安を回復したのは「日本軍占領区域」でした。そのため他国の占領区域から、こちらに移り住む市民が多く、町は日に日に繁昌していきました。また、日本軍は横行する強盗や窃盗、無頼漢らを捕えて厳罰に処しました。暴行・略奪をした外国人兵士(その筆頭がロシア兵であることはいつも変わりません)を捕えると、彼らの軍司令部に突き出しました。  

柴中佐と福島少将は、清国政府の国益を守るためにも奮闘しました。清国皇族で実力者の慶親王に「一刻も早く北京に戻り、列国と交渉を始めなければ、清国はその存立が危ない」と使者を送りました。  

案の定、そうしているうちに、この北京攻略戦には一兵も参加しなかったドイツが、続々と大兵を送り込み、その兵たちは北京で稼ぎそこなった分を他の諸都市で略奪しました。  

また、混乱に乗じて全満州を制圧したロシアは、中国を丸ごと手中にしようと画策を始めました。先の慶親王の誘拐計画です。幸い、これを察知したイギリス公使マクドナルドが日本軍と協力し、慶親王は柴中佐の率いる騎兵に守られて、北京の自邸に帰ることができました。  

しかし、この後、清国と連合国の賠償会議はえんえんと続きました。この時、最大の賠償金を吹っかけたのは、ロシアでした。一番少なかったのが我が国で5000万円です。イギリスが日本の五倍(ただし、出兵数の比で見ると日本の次に低額)、戦後になってドッとやってきたドイツはイギリスの2倍、わずかな兵を出しただけのフランスも我が国の2倍(出兵数の比で日本の100倍)を要求しました。  

柴中佐たちの心配は的中してしまいました。義和団の乱に乗じて、自分の政治権力の強化をはかった西太后は高い代償を払うことになりました。不平等条約や租借地を無くしたいのなら、それが条約で決められたものである以上、我が国のように「条約改正」に努力するほかありません。それが国際社会のルールです。  

この事件を通して、我が国は国際社会での地位を大いに高めました。1902年、大英帝国イギリスは『栄光ある孤立』をやめて、我が国と「日英同盟」を結びます。これは画期的なことで、世界を驚かせました。なぜなら、それまでどこの国とも軍事同盟を結ぶことを拒否してきた誇りある大英帝国が、有色人種の日本と対等な同盟を結んだのですから。我が国はついに、世界の一等国と肩を並べることになったのです



【陸軍大将・柴 五郎の追憶/葦津珍彦著『天皇‐昭和から平成へ』より】


会津藩では慶応四年の春のころには、すでに朝敵として天下の大軍を迎へて、敗戦を覚悟で戦わねばならないと武家の子女たちも予期してゐた。柴 五郎(後の陸軍大将、当時10歳のころ)が、その年の「ひな祭り」の印象的な風景を書き残してゐる。彼の母は、緋の布をしいて段を設け、内裏様(天皇)、三人官女、五人囃子など華やかに ならべて、優雅なぼんぼりに明かりをつけた。世情は騒がしさを感じさせたが、家の内は例年のとほりの華やかな、しかも静かな風景だった。  

だがそのころ、会津藩が朝敵のレッテルをつけられて、敗北必至の戦いをせねばならないとの風評は高かった。女子といへども、生きて降伏はせぬとの気が満ちてゐた。幼少の五郎は、ひな段の前で聞いた。

「母上、内裏さまは天子様と聞くが誠ですか」と。母は子の眼を見つめて、ただうなづいた。五郎は天子様を、このように祭り敬ってゐるのに、なぜ会津が朝敵として討たれねばならないのかと質したかったけれども、その時の母の表情にきびしさを感じて、黙ってしまったと追憶してゐる。

この母は、会津落城にさいして、その子に家を継がせ会津の名誉回復の使命を果たさせるべく田舎へ疎開させた。そして自らは家に火を放ち、娘を刺して武夫も及ばぬけなげな最後の自刃をとげた。この最後の日を期してのかの女の、くる日、くる日の生活の記録は、名門会津藩の文化を想わせて、いとも優しくして静かである。私は、これこそが真に優雅で美しい生を知る人だと感嘆する。その死は目前に控えてゐる。だからといって優雅なひな祭りをやめるやうな者は、ほんとうの「ひな祭り」の美しさを知らないのではないか。

静かで優雅な文化の中に生きる者は、その文化の亡びる時には生きてゐない。自ら美しく高貴だと信ずる文化が危機に瀕したと知る時に、その美しさを知る武家の子女は、死を当然だと信ずる。男子がその高貴なる文化のために、必死の戦闘に燃え上がらなくてどうするか。日本の武士が桜の花のやうに散って行った美しさには、この自ら信じた優雅の文明を守る心がある。だから日本の武士道は、その死を見ること帰するがごとき勇気とともに、優しさがあった。

(中  略)

だが問題はそれだけではない。かの女は「朝敵」の汚名を浴びせられても、それは第二義的政治党派の悲劇的な混乱のためで、お内裏さまは、天下の祭り主として、やがては会津藩の名誉も回復して下さる日の必ず来ることを確信した。だからこそ、落城と自刃を予期しながらも「ひな祭り」のお内裏さまを拝んだし、幼い子にその名誉回復の使命を託して彼岸へ行った。

(中  略)

ただ華やかにひな段を作り、ぼんぼりに明かりをつけて、子らとともにお内裏様に手を合わせて祈った。子供の質したいことを敏感に察したが、未だ学ぶところの少ない子らに愚痴などはいはない。ただ優美な顔に一瞬きびしさを示して、その子の晩年にいたるまで消え去りがたい深い痛切のセンスを教へた。ここに日本武士の本当の教育がある。

(中  略)

柴 五郎は、その後に大元帥の忠勇なる武臣として、天津事変の指揮官となり、日本軍を軍規正しく国際法に忠なる軍隊として列国の間に名声を高めた。後にかれは大元帥の下で最高級の大将に昇進した。優雅にしてきびしい母の眼ざしは、かれの長い生涯の導きとなった

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