今なぜ武士を特集するか

断ち切られた歴史感覚を取り戻すために

飯嶋七生(自由主義史観研究会会報編集長)
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◆『武士ズム』に掲載された、沖縄「集団自決」問題の病根
本年1月、小林よしのり氏と武道家堀辺正史氏の対談集『武士ズム』(小学館)が発売された。そのあとがきに小林氏が書かれた文章をご一読頂きたい。
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…最近話題になっているのは、沖縄戦で米軍が上陸してきた際に起こった住民の集団自決が、日本軍の命令だったか否かという議論である。沖縄のマスコミは『軍命ありき』でキャンペーンを張っていて、沖縄では『軍命などなかった』と言おうものなら村八分にされる空気が漂っている。だが沖縄戦が始まる一年前まで、沖縄には『軍馬一頭』と揶揄されるほどしか日本軍はいなかった。まともに軍が派遣されてたった一年で、住民がすっかり軍に統制され、『家族同士で殺し合え』と命令されたら粛々とその『軍命』に従った、などということがあるだろうか? 沖縄のマスコミや学者たちは、当時の沖縄県民は『家族愛』よりも『軍命』の方が絶対になっていたと言っているわけだから、これは当時の沖縄県民に対するとてつもない侮辱である。家族愛ゆえに死を選ぶ。米軍に辱めを受け、惨殺されるくらいなら、家族一緒に死んだ方がましだ、という切羽詰った思い。その方が軍人さんたちも思う存分戦える、足手まといになりたくない、と健気に思いつめる愛国心。そんな感覚がどうやら今の沖縄のマスコミにも、本土のマスコミにも、想像がつかないようなのだ。サイパンでも米軍が上陸してきたら、女性たちは子供を抱いて次々に断崖から身を投げた。樺太でもソ連軍が迫ったら、女性交換手達が青酸カリを飲んで集団自決した。もちろん『軍命』などあるはずもない。自ら死を選んだのだ。この当時の日本人の、武士の切腹にも通底する死生観が、どうしても戦後に生きる者たちには理解できない。何しろ今の沖縄では『命どぅ宝(命こそ宝)』という標語が氾濫している有り様で、その生命至上主義に洗脳された頭脳では、武士道も愛国心も理解できず、哀れなことに自分たちの祖父母の代の思いまでが忘却されている。(『武士ズム』より)
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◆会津落城と婦女子の「集団自決」
小林よしのり氏が言い尽くしているように、「武士道」、あるいは「当時の日本人の死生観」を理解できなければ、沖縄の集団自決だけでなく、ほんの数十年前の人々がとった行動の背景、心情などはまったく分からない。
たとえば、戊辰戦争(1868年)で、敵軍が城下に迫ったのを見た会津藩家老、西郷頼母の妻らが自刃した悲劇は何度も映像化されており有名である。
妻の千重子、母や娘ら一族21人は、「戦力にならない女子供が足手まといになってはならない、籠城しても兵糧を無駄にするばかり」として一斉に自決したのであった。千重子は夫を城に送り出した後、家と身を清めてから愛する幼子を、三女(9歳)、四女(4歳)、五女(2歳)の順に刺していった。ときに千重子34歳である。

千重子らの自刃場面(会津武家屋敷の展示)
こうした行動をとったのは家老一族ばかりではない。会津城下では大黒柱の男が戦に出ており、多くの婦女が老親や幼児とともに残された。彼女たちは敵軍に辱められるのを怖れて、胸を突き、池に飛び込むなどして223名が自決した。
武家の女子は成人すると懐剣を与えられ、名誉や貞操を守るため自害の作法を学んでいた。新渡戸稲造が『武士道』で例示したように、これは自殺を禁じるキリスト教圏でも、「聖人」と賞賛されうる自刃であった。
それから77年後、樺太ではソ連兵の陵辱を恐れた日本人女性交換手が集団で青酸カリを飲んで自害、満州でも女性看護士が貞操を守るために自害した。沖縄では、座間味村の助役や女子青年団長たちが「軍の足手まといにならないよう自決させますので、手榴弾を下さい」と戦隊長に迫ったという。
これらの人々の価値観の間には、大きな隔たりがあるとは思えない。むしろ、同じ日本人として同一線上の行動ととらえることができる。
だが、酷似した悲劇であるにもかかわらず、西郷邸跡では現在も会津婦人の潔さを顕彰し、毎年、慰霊祭を執り行っているが、沖縄ではそうではない。誰かに命じられて、家族を殺すような者とされているのだ。この両者の間に線引きをすることが、すなわち、歴史観を断絶させられていることと気づくべきではないだろうか。
◆死を意識して、生が覚醒する
ところで、武士道というと、『葉隠』の「武士道とは死ぬことと見つけたり」の一文を引き、生命軽視の思想と曲解し、生半可な知識でもって毛嫌いする者がいる。しかし、同書を熟読すれば分かるように、談者、山本常朝は生命を無駄にすることのないよう説いているのである。恥を忌む武士にとって、「生」に執着することは「私利」や「欲」に堕するおそれがあるために、その戒めとして象徴的に述べたにすぎない。
人は、死を覚悟したとき、初めて生命の重さを知り、己の生命を燃焼させる生き甲斐の発見に努めるものである。これは現代でも同じではなかろうか。
不治の病で余命を宣告された者が、文字通り「必死」に自らの足跡を残そうとする物語はマスコミでも多く話題にされている。
最近、刊行された本だけでも、24歳の若さで亡くなった『余命一ヶ月の花嫁』はベストセラーとなり、その他にも、ガンを告白した民主党国会議員、山本孝史の『救える命のために』、翻訳書では『最後だと分かっていたなら』、1月に37歳で亡くなったばかりの写真家中山万里『空地への感謝』など、枚挙に暇がない。
生命の期限を知ったとき、人は人に恥じない生き方を心がける。『葉隠』においても、常に死を意識してこそ、立派な働きが出来ると説いたのであり、決して死に急ぐことを勧めた生命軽視の思想ではない。
◆武士道と日本人の美徳
そもそも、外国人に日本の道徳教育は何に拠るかと問われた新渡戸稲造が、それへの回答として執筆したのが『武士道』である。同書には、長い歴史をかけて培ってきた武士の教えが体系的に述べられており、義、勇、仁、名誉、廉潔など、サムライ社会の美風が、時を経て、日本人の道徳的規範、理想像として民衆層にも拡散されていったことが説明されている。
日露戦争で乃木将軍が、敵の敗将ステッセルを厚遇したことは、武士道の精華として世界中で賞賛された。敗者への敬意を忘れないことは武士道の重要な教えであった。
だが、第2次世界大戦期、マレー進撃中に、山下奉文将軍が英国兵捕虜を丁重に扱うよう訓示した話はあまり知られていない。英国兵捕虜の管理にあたった日本兵は、敵に投降して生き長らえているのを見て、侮蔑し、それが態度にも表れたらしい。山下将軍は、この様子を見咎めて「英国では、立派に闘った後、力尽きて捕虜になった者は恥辱ではないと考えている。彼らは卑怯者などではないのだから、今後は決してそのような扱いをしてはならない」と叱りつけたという。間違いなく、半世紀前まで武士道は血肉として生きていたのである。
◆歴史の断絶
沖縄集団自決問題は、詳細な調査の結果、いよいよ戦隊長の命令がなかったことが明白となり、旗色の悪くなった人々は、『戦陣訓』が「暗黙の命令」にあたると主張を変えてきた。
しかし、『戦陣訓』の元となったのは、新渡戸が『武士道』で引いた英国人ガースの詩、 「名誉の失われし時は死こそ救いなれ、死は恥辱よりの確実なる避け所」と同様、普遍的な美意識であった。殊に日本の武士は廉潔を尊び、敗れてなお生きることを恥とした。それが「民衆への感化」(新渡戸)とともに武士以外の日本人にも理想とされ、捕虜となる途を選ぶのを恥じた。それは当時の規範であり「空気」であり、現代の感覚で善し悪しを量るべきではない。
『戦陣訓』があろうとなかろうと、その時代や民族に属する固有の心情に従って行動したであろう。現代人が現代固有のイデオロギーで弾劾するなど、無意味であるし、また傲慢ですらある。
終戦後、GHQは、日本人の強さ、勇敢さを武士道に由来するとみて危険視し、歌舞伎の上演や時代劇の制作さえも禁じた。戦勝国が旧敵国を徹底的に弱体化するためである。武士道は、人命軽視、時代錯誤の思想と教え込み、二度と日本人が武士道に拠らないよう洗脳し続けた。
占領下に断ち切られた本来の歴史感覚を日本人全員が取り戻しさえすれば、沖縄「集団自決」の問題は、いとも簡単に終息するはずである。
そして、その暁には、日本人が長い歴史をかけて培ってきた、恥を知り名誉を重んじる美風も、弱者に対するいたわりや皆のために尽くす公共心も、甦ってくるだろう。
「武士」を論じることは、荒廃しかけた日本人の道徳を取り戻すことでもあるのだ。
参考文献
・三島由紀夫 『葉隠入門』 新潮文庫
・江藤 淳 『閉ざされた言語空間』 文春文庫
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