西洋人に武士道を知らせた新渡戸稲造

上原 卓(自由主義史観研究会理事)

◆「太平洋のかけ橋」を畢生の願いとした新渡戸

本新渡戸稲造は、文久2年(1862)に盛岡藩の勘定奉行新渡戸十次郎の三男として盛岡市に生まれました。13歳のとき上京した新渡戸は、東京英学校(後の東京帝国大学予備門)に学びました。2年後の明治10年(1875)、新渡戸はここを中退し、北海道開拓使札幌農学校に入学します。在学中にキリスト教の洗礼をうけてキリスト教徒となります。農学校卒業後は、開拓使御用係や農商務省御用係を務めます。また、東京帝国大学の選科生として、英文学や統計学を学びます。

明治17年(1884)に新渡戸はアメリカに渡り、ジョンズ・ホプキンズ大学に入学しました。在米中の明治20年(1887)、新渡戸は札幌農学校助教に任ぜられ、農政学研究のため3年間のドイツ留学を命じられます。ドイツではボン、ベルリン、ハレの各大学で農政学、農業経済学、統計学などを学びます。

帰国した新渡戸は、台湾総督府技師、京都帝国大学教授、第一高等学校校長、東京帝国大学教授、東京女子大学学長を経て、大正8年(1919年)に国際連盟事務次長の要職に就き、7年間務めました。

新渡戸の畢生の関心事は、東洋と西洋のあいだの理解融合であり、みずから「太平洋のかけ橋」になることでした。晩年の新渡戸は、日本とアメリカの関係が悪化していくのを憂慮しました。亡くなる1年前の昭和7年(1932)にはアメリカに渡り、フーバー大統領やスチムソン国務長官と会見し、日米関係の改善に努めています。

ここでは、新渡戸の名著『武士道』の内容の一端を紹介し、新渡戸がなぜ『武士道』を書いたか、『武士道』はどのような内容であったかをみていきたいと思います。



◆『武士道』が書かれるまで

新渡戸は、ドイツに留学中のあるとき、ベルギーの法学大家ド・ラヴェレー教授の招待を受けました。ふたりが散歩をしているとき、話題がたまたま日本の徳育の問題におよびました。ラヴェレーは、「日本の学校で宗教教育は何を授けるのか」と問いました。新渡戸は、「宗教など教えません。仏教も神道も学校内では教えません」と答えました。

ラヴェレーは驚いて立ち止まり、「道徳教科なしに国民を指導する…、どうして善悪の区別を覚えるのだろう…」と独り言のようにいいました。  

西洋人にとって、道徳教育は宗教教育なくして成り立たず、道徳教育を受けていない人間は信用できない存在でしかありませんでした。新渡戸は、ラヴェレーの驚きをこめた問いに即答できませんでした。日本人の名誉を守るために、新渡戸は日本人のもっている道徳観念が西洋人のそれに劣らないことをいずれ説明しなければならないと思いました。

その後、日本は、清国と戦争をしました。日清戦争(1894〜5)です。東洋の大国清国を破った日本に対する警戒心から、西洋には誤解と偏見にみちた「黄禍論」が生まれました。日清戦争が終わって数年後に新渡戸が『武士道』を書くにいたったのは、ラヴェレーの問いに答えるためでもあったでしょうが、西洋人が日本人に対していだいた誤解や偏見を解くためでもあったと思われます。  


◆『武士道』が示した日本人の道徳観

新渡戸は、明治32年(1899)、ペンシルヴァニア州マルヴァーンで『武士道』を英文で書き上げました。『武士道』は、翌年アメリカで出版されました。この著述の全体を通して、新渡戸は西洋の聖書、文学、歴史から引用した事例と、日本の神道、仏教、儒教や文学、歴史から引用した事例と対比させながら、日本人の道徳観を説明しました。

『武士道』は、翌年アメリカで出版されました。この著述の全体を通して、新渡戸は西洋の聖書、文学、歴史から引用した事例と、日本の神道、仏教、儒教や文学、歴史から引用した事例と対比させながら、日本人の道徳観を説明しています。その『武士道』の一部を紹介します。

まず、「義」についてです。  
「義」とは、道理に従って躊躇せず決断する力です。死ぬべきときに死に、討つべきときに討つ決断力です。  

「義」が従うところの道理とは、「正義の道理」です。「正義の道理」は、「なぜそうしなければならないのか」という疑義を差しはさむ余地のない絶対命令です。「こういう理由があるからこうすべきである」という人間的な理由づけの介入できない絶対命令です。新渡戸は、この「義」を、キリストが述べた言葉「我は失せし者の見出さるべき義の道なり」と対比させます。       

「義」から分岐したものに、「義理」があります。「義理」は、使われているうちに世俗の垢にまみれてしまいますが、本来の意味においては、単純明瞭な「義務」を指しました。われわれが両親、目上の者、目下の者、一般社会などに対して負うところの「義務」です。

新渡戸は、「義」を「節義」と再定義して語る真木和泉のことばを紹介しています。

「節義は、例えば人の体に骨があるようなものである。骨がなければ、首は正しく体の上にあることができない。手は動かすことができない。足は立つことができない。それと同じように、節義がなければ、人は才能があっても、学問があっても、世に立つことはできない」

次は、「勇」についてです。
「勇」は、「勇気」と同じです。「勇」には二つあります。猪突猛進して死を恐れないのを、武士道では「匹夫の勇」といいます。水戸光圀は、「戦場で討ち死にするのは易しいことであり、匹夫でもできる」と言いました。同じように、西洋ではこれを「肉体的勇気」といいました。シェイクスピアは、「勇気の私生児」といいました。  

真の「勇」は、「義」のために死ぬ勇気です。光圀は、これを「生きるべきときは生き、死ぬべきときにのみ死ぬこと」といいました。同様に、西洋ではこれを「道徳的勇気」といいました。古代ギリシアの哲人プラトンは、「勇気とは、恐るべきものと恐るべからざるものとを識別すること」といいました。

武士は子供のときから「勇」の徳をもつように訓練される、と新渡戸は述べます。「小児は、まだ母の懐を離れないときから軍物語を繰り返し聞かされる。もし何かの痛みによって小児が泣けば、母は叱って、『これしきの痛みで泣くとは何という臆病者です!戦場で汝の腕が斬り取られたらばどうする?切腹を命ぜられたときはどうする?』と小児を励ますのである」

このよな訓練によって「勇」が宿るようになった武士は、常に沈着です。彼は決して驚愕に襲われず、何ものも彼の精神の平静を乱されません。激しい戦闘のさなかにあっても、彼は冷静です。

新渡戸は、平安時代の武士のなかから戦いの際の平静さを表す例を挙げています。陸奥国の豪族・安倍貞任は、陸奥守源義家と衣川柵で戦いました。貞任は、敗れて馬で逃げようとしました。追いかけた源義家が貞任に向かって、「汚くも敵にうしろを見せるものかな。引き返して勝負せよ」と呼ばわりました。その声を聞いた貞任は、馬を止めました。義家は追いすがりながら、「衣のたてはほころびにけり」と、下の句を詠みました。

この句には、二つの意味がふくまれています。「あなたが身につけている衣(衣服)の縦糸は綻びてしまった」「あなたの衣川の陣地は、われわれの攻撃により突破されてしまった」 

その句を聞くか聞かないうちに、貞任は「年を経し絲の乱れの苦しさに」と上の句を付けました。「永年着ていたために衣は綻びてしまった」「苦しい戦いが長く続いた結果、突破された」 義家は、引き絞っていた弓をにわかに緩め、貞任が逃げるのに任せました。それを見ていた者が、怪しんで「なぜ逃がしたのか」と問いました。義家は、「敵に激しく追われながら心の平静を失わない勇者を辱めるのは忍びなかったからだ」と答えました。                  

武士道における「勇」は、蛮力の争いとして表現されただけでなく、平静な知的競技としても表現されたのです。 新渡戸は、これと類似する例、政敵ブルータスを死に追いやったアントニーが悲哀とともにブルータスを称える例を紹介しています。

「義」「勇」の説明に限りません。「仁・惻隠の心」の説明では、フレデリック大帝と上杉鷹山の施政に共通する思想を示すというように、「礼」「誠」「名誉」「忠義」「克己」など武士道の尊重する諸徳について、新渡戸は日本の武士道が西洋の騎士道に似ていることを西洋人が理解しやすいよう、聖書、ギリシャ神話、プルターク、ミケランジェロ、ゲーテ、モンテスキュー、アダム・スミスなどから引用して例証しました。

新渡戸は述べています。封建制度が行われていた時代にあって、「武士道」は武士階級の道徳規範であった。同時に、「武士道」は武士階級から流れくだって大衆のあいだに酵母として作用し、すべての日本人に対する道徳的標準を供給した。明治維新になり封建制度は解体したが、「武士道」は生き残り日本人の道徳の道しるべになっている、と  


◆『武士道』に対する西洋世界の反響

『武士道』は、西洋人に対して正しい日本人理解を求める新渡戸のメッセージでした。『武士道』の国際的反響は大きく、ヨーロッパ各国の言葉に翻訳されて多くの西洋人がこれを読みました。『武士道』を読んだ西洋人のある識者は、「これは、東洋と西洋との調和に寄与するものである。日本人は、アジアの知恵と集団主義、西洋の精力と個人主義とを仲介し調和させる力をもっている」と絶賛しました。

アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトも、『武士道』に感銘を受けたひとりでした。ルーズベルトは、『武士道』を友人知人たちに配り読むことを勧めたほどでした。ルーズベルトが後に日露戦争の調停役を買って出たのは、『武士道』を読んでいだいた日本人に対する好感からであったといわれています。

しかし、ルーズベルトは、日露戦争後、一転して日本人を警戒するようになりました。そして、日本が国際社会で得た権益を制約するような政策をとりはじめます。そこには、白色人種・西洋人がもっている有色人種に対する差別意識があったと考えられます。また、有色人種のなかにあって異彩を放つ日本人が、いつの日にか白色人種の植民地支配を突き崩すのではないかという恐怖心もあったと思われます。

日本の武士道精神や西洋の騎士道精神が現代において「太平洋のかけ橋」になることを願っていた新渡戸でしたが、現実の日本とアメリカの関係が新渡戸の願いを裏切る方向に進んでいってしまったのは残念なことでした。

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