模擬授業
幕末維新期のサイエンス武士道


※この模擬授業は自由主義史観研究会神戸・授業づくりセミナーで行われました。


吉永 潤(神戸大学発達科学部助教授)

はじめに  

今回の授業は、「科学技術者としての武士」という発想ができないかと考え、「幕末維新期のサイエンス武士道」というテーマを掲げてみました。  

今朝、新聞をみていましたら、京大チームがiPS細胞を皮膚からとることに成功したという報道に関連したコラムがありました。ゲノム解読を最初に着想したのは日本人だったのに、結果として解読貢献率は非常に低いというのです。その原因は、科学技術者そのものの資質にあるのではなくて、科学技術行政にある。日本人に創造性がないのではなく、創造性を世界標準にもっていく政治的力量がまだないのです。  

今日の授業は、われわれの偉大な先人に学ぶことによって、これからの科学技術政策や科学技術教育についてほんの少しでも考えることができればいいなと思います



一、アメリカ蒸気軍艦の父・ペリー 

今日テーマにする時期は、幕末です。  

江戸幕府は鎖国…といっても日本はオランダ、中国、朝鮮とはお付き合いをし貿易をしていたのですが、しかし、それ以外の国とは付き合わない、また、日本人は海外渡航まかりならない、それを鎖国といっていたのですが…その鎖国の方針を転換し、各国と付き合いをすることにしました。この転換を生んだのが、ご承知のとおり、1853年のペリー来航です。  

ペリーのフルネームはマシュー・カルブレイス・ペリー。ペリーは、その父親も兄弟たちも海軍の軍人でした。長男のオリバー・ハザード・ペリーも、1813年、アメリカがイギリスとエリー湖で戦ったときに大活躍をしています。日本に来たペリーは三男坊でした。彼が日本に来たとき、すでに59歳でした。彼のあだ名は「熊親父」だったそうです。  

ペリーが浦賀に来た時、ひきつれていた軍艦は4隻で、彼が乗っていた船はサスケハナ、あとの3隻は、ミシシッピ、プリマス、サラトガです。このはじめの2隻が蒸気船でした。

アメリカは、1812年、蒸気船の製造に初めて成功していたのですが、それ以降も帆船の時代が続き、蒸気船は活用されませんでした。若いころのペリーは、「これではいかん」ということで、フルトン号という蒸気船を作らせ、非常に早い速力で走ることを実証しました。これを見た議会は予算をつけ、サスケハナやミシシッピが製造されました。それで、ペリーは、アメリカ蒸気軍艦の父といわれます。  

ただ、ペリーが浦賀に来た時点で、蒸気船の製造に関してアメリカはかなり遅れていたようです。この頃、スクリュー船の方が世界的に主流になりつつありましたが、アメリカは外輪船にこだわっていました。浦賀にやってきた外輪蒸気船は日本人にとっては脅威でしたが、世界的にはやや流行遅れでした。このように、欧米の科学技術が日進月歩の時代に、日本はちょうど開国したのです。


二、国産初の蒸気船、製造はいつ? 

では、日本人がこの蒸気船を独力で製造することに成功したのは、ペリーの来航から何年後だったのでしょうか。  

私の大学のゼミの学生に、「5年以内」、「10年以内」、「15年以内」、「15年以上」という4択で聞いてみました。その結果、男子学生1名が「10年以内」、女子学生3名が「15年以上」という予想をしました。理由を聞きますと、男子学生は「日本は物まねが得意だから、比較的早かっただろう」、女子学生たちは「蒸気船は鉄の塊でつくるので重工業が発達しなければ無理だろう」、「西洋人はこんな大事な軍事秘密を日本人に明かさないだろう」と言っていました。これらは、なかなか面白い意見だと思います。  

実は、正解は「2年後」、1855年なのです。これには、学生たちは驚いていました。

では、それはどういう船だったのでしょうか。(資料を示して)名前は「雲行丸」、長さ16メートル、幅2.7メートル、煙突があり外輪があって、これが蒸気機関です。墨田川で試運転を行ない、結果は非常に満足すべきものでした。橋の上から、観衆がやんやの喝采をしたということです。これを作ったのは誰でしょうか。

(資料を示して)これが作った人の写真です。実は、この写真は日本人が日本人を撮影した最初の写真です。ここに写っているのは、島津斉彬という人です。


三、西洋人も人なり、薩摩人も同じく人なり
 

島津斉彬は、薩摩藩(鹿児島県)の藩主、つまり大名でした。斉彬は、江戸の薩摩藩邸で蒸気機関を製造し、船に据え付けて試運転をしたのが1855年。斉彬は、残念ながらその3年後に亡くなります。  

斉彬の父は島津斉興、曽祖父は島津重豪といい、この重豪は蘭学がたいへん好きでした。斉彬は江戸の藩邸に生まれ、重豪に大変可愛いがられて育ちました。斉彬は少年時代、重豪と共に江戸に来たシーボルトに会っています。シーボルトはこの少年のことをよく覚えていたそうです。大変利発な少年だったのでしょう。  

斉彬が藩主になるまでには、藩内になかなか難しいことがありました。結果として、ペリー来航の時に老中筆頭であった、幕府の阿部正弘が強力に介入し、斉彬を大名にすることに成功しました。というのも、阿部は斉彬の才能に惚れこんでいまして、斉彬との間に非常に深い友情を築いていたのです。  

斉彬が大名になるやいなや始めた事業が、「集成館事業」と呼ばれるものでした。  
(写真を示しながら)これは今、尚古集成館という博物館になっていますが、当時は集成館と呼ばれていました。この建物、当時はいったい何だったのでしょうか。  

今の言葉でいうと、コンビナート、複合工業施設でした。ここで数え切れないくらいの種類の研究、開発、製造を行なっていたのです。  

まずシンボル・タワーというべきが反射炉。砂鉄を熔かす構造物で、熔けた鉄で大砲を始めさまざまな鉄製品を作ります。  

九州では、先に佐賀藩がこの反射炉の製造に成功しています。斉彬は、オランダの技術書と共に、佐賀の技術を学んだ上で独力で反射炉を作ろうとしました。しかし、何度つくっても、高熱でレンガが熔けて内側に崩れてしまいます。このとき、彼はこういうことを言っています。  

「反射炉建設は日本ではこれまでにない創業にあたるため、佐賀ではおよそ18回ほど改築して、やっと大砲を作れるようになった。我々も、ひな型をみて、わずかな試験だけで成功するというわけにはいかないだろう。西洋人も人なり、佐賀人も人なり、薩摩人も同じく人なり。努力を怠ることなくますます励んでいこう」。  

この結果、反射炉製造に成功し、大砲や軍艦などに使う鉄を大量に生産することができるようになりました。  

鉄砲についても逸話があります。ペリーが来航したとき、最新式のライフル銃を2丁幕府に献上しました。阿部正弘が斉彬にそれを見せたところ、斉彬は2日間でそれを分解して図面に書き取ってしまい、後にその銃の複製をつくって阿部に渡しました。このとき、斉彬は阿部にこう言ったそうです。「こういうものは秘密にしないで、公開すべきである。誰もが作れるようにすべきである」。  

集成館では、このような軍事関連の製造物だけでなく、有名なものでは薩摩キリコと呼ばれるガラスの製造や、また芋からのエチルアルコールの蒸留に成功しています。火薬をつくる過程でエチルアルコールが必要なのですが、斉彬は、米からつくっては百姓に申し訳ないと考え、芋からの蒸留に成功し、それが芋焼酎になったのだそうです。その他、紡績、製薬、印刷・出版、電信、写真などの各部門がありました。斉彬も自分で写真を撮影しています。


四、国民が富めば、君主も富む  

斉彬は次のように述べています。「昔の言葉に、国民が富めば、君主も富むとある。国主たるものは、このことを一日も忘れてはならない。国の蔵方に一文もなくても、国じゅうの者の生計が豊かであり生活を楽しんでいるならば、それだけで国に緊急の出費のあるときには、民はすぐに協力してくれるだろう。しかるに、今の幕府も役人もこのような心得をもって政治をする者はなく、役人たちは国の都合ばかりを考えて、蔵方にどれだけ蓄えてあるかが国が富んでいることだと心得違いをしている」。  

斉彬はアダム・スミスの「国富論」を読んでいたのかもしれません。民が富んでこそ国が富む、その逆ではないというのが斉彬のモットーでした。ですから、集成館事業では、軍事に限らず、さまざまな民生品の開発を精力的に行ない、薩摩、ひいては日本が全体として豊かになることをめざしていたのです。  

もう一つ、斉彬は、阿部正弘に会って次のように述べました。「今日、外国は一般的に国旗をもちい、船の印として国旗を掲げ、自国の船であることを明らかにしている。いま日本においては、諸大名が自分の家の印として家の旗を掲げているだけであり、日本の国旗はない状態である。これは外国に対して恥ずかしいことではないか」。これに対して、阿部は「まったくその通りである。これを何とかしなければならない」と応じました。そこで、斉彬は提案しました。「日本国を示す旗、船の旗として日の丸をもちいるべきだ」。阿部は膝を叩いて、「必ず日の丸を日本国一般の旗として掲げるよう布告しよう」と述べたそうです。1854年のことです。  

(帆船の図を示して)これは薩摩藩が製造した帆船、昇平丸です。(帆船の船尾を指して)ここに日本の国旗がありますね。この船は、国籍を明示するために我が国が初めて国旗を掲げた船だといわれています。  

このように斉彬は、薩摩だけが豊かになること、強くなることだけを考えていたわけではありませんでした。彼が見ていたのは日本全体であり、世界の中の日本でした。彼が行なった集成館事業は、今でいうモデル事業といっていいと思います。彼が凄いのは、「ウェルカム集成館。皆ここへどんどん来て、見てくれ。技術を盗んでくれ」ということを言っているのです。そして、来た人ごとに感想を聞き、その感想に基づいて改良するということを絶えずやっています。


五、鍋島のアームストロング砲
 

同じころ、佐賀(鍋島)藩にも科学技術に熱心な大名がいました。鍋島直正です。薩摩藩の集成館に匹敵する理化学研究所、工場をつくり、蒸気船、蒸気機関車などの製造や、アームストロング砲と呼ばれる元込め式の当時最新鋭の大砲の製造に成功しています。 アームストロング砲を開発したのはイギリス商人で、イギリス軍が実戦で初めて使用したのは1863年の薩英戦争においてでした。しかしこのとき、ガスの噴射や砲身の破裂によりかなりの死傷者を出しました。それで、イギリス軍は「アームストロング砲は駄目」とみて先込め式の旧式大砲に戻ってしまったのですが、直正は「これはいける」と考え、このアームストロング砲を自分の藩で作ってしまいました。この佐賀藩のアームストロング砲は、1868年、官軍が上野の彰義隊を攻撃するときに使われました。  

ただ、斉彬の薩摩と比べて佐賀藩は非常に秘密主義でした。聞かれると答えないことはないのですが、このような科学技術開発をやっているということを、厳重に秘密にしていました。


六、武士の精神から科学技術へ
 

このような二人の「サイエンス大名」を調べて、私としては二つのことを感じました。  
一つは、「ともかく自分で作ってみる」という精神が凄い。外国からモノを導入する際、ただ買うのではなく、モノの成り立ちの原理原則にまで立ち帰って理解し、試行錯誤を繰り返しながら自分の手で作ってみるという姿勢が大変すばらしいと思います。真似といえば真似ですが、徹底的な模倣です。  

これは、斉彬たちが武士だったからであろうと私は思います。もともと武士とは、自分の所領は実力で守るという独立心に富む人々でした。自分に実力がなければ独立は叶わない。だから、昔においては刀や弓の戦闘技能を鍛え、幕末の時期には自ら蒸気船や大砲を作り備えようとする。手段は違いますが、こういった実力を他人に依存せず自ら備えようとする姿勢は、武士の独立自主の精神に発するものだと思います。  

二つ目は、特に斉彬に言えることですが、真似するだけでなく「真似される」ことを志したというところが偉いと思います。そもそも、科学技術とは、「誰もがその確かさを確かめられ、誰もがそれを真似できる」というものです。難しい言葉でいえば、科学技術とは「公共財」なのです。このことを、斉彬はよく分かっていました。ですから、すべての成果をオープンにして、「オレから真似ろ。成果を次々に使ってくれ。そして、日本の国じゅうを薩摩のようにしてほしい」ということをたびたび言っています。また、船が個々の藩の旗を掲げても駄目であり、日本の船は日本の国旗を掲げなければいけないというのも、同じ考え方の一つです。現在の科学技術者がいう「スタンダード」を打ち立てようという意識が、斉彬には非常に強かった。  

科学技術はみんなの共有財産でなければならない、私のためではなく公共のために役立たせなければならない、というこの考え方も、江戸時代において武士が統治者であったこと、民百姓を護り慈しむという統治の責任を負ったことから来ると思います。このような武士の公共への忠誠心は、主君のため、お家のため、領国と領民のため、さらに幕末期に日本という国自体が危機に瀕したときには、国家のため国民のため、というふうに拡大していきました。  

さて、もし島津斉彬が今の総理大臣であったら、どんな科学技術政策をとり、どんな科学技術教育を行なうでしょうか。いろいろ想像してみていただけたら幸いです。

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