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特集
韓国・北朝鮮に謝罪は必要なのか?

Q&A
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Q&A:昔は日本も朝鮮人を拉致するようなことをしたのでしょうか?
<質問>
2002年の小泉首相の訪朝をきっかけに、多くの日本人が北朝鮮に拉致されていたことが明らかになりました。
ところが、「日本が朝鮮を統治していた時代に、日本もたくさんの朝鮮人を『強制連 行』したのだ、それにくらべれば、拉致問題などは小さな問題だ」という意見を聞き
ました。昔は日本も朝鮮人を拉致するようなことをしたのでしょうか?
<回答>
正しい歴史を知ることが、今、わたしたちを取り巻く問題に直接かかわってくる、というよい例です。正しい歴史を知っていれば、このようなおかしなことを言われても、すぐにきちんと反論できるのに、学校は何をしているのでしょう。
・「強制連行」というプロパガンダ用語とイメージ操作
まずは「強制連行」という言葉のトリックについて説明しましょう。
この言葉からイメージするのは、どのようなものですか?現在の日本の拉致被害者が証言するような、たとえば海岸を散歩しているときに、いきなり殴られて、大きな袋をかぶせられ、船で連れていかれる、といったものでしょうか?これは明らかに拉致であり、暴力的な「人さらい」と言っていいですね。
そして、中学校の教科書を見ると「強制連行」の例として「警察官や役人が土足で家 に上がり、寝ている男を家から連れ出すこともありました」とか、「町を歩いてる者や、田んぼで仕事をしている者など手当たり次第、役に立ちそうな人は片っ端から、そのままトラックに乗せて船まで送り、日本に連れてきた。」といったことが書いて
あります。もしも、これが本当に行われていたことであるならば、拉致と同様、「人さらい」であり、完全に犯罪であるといわざるをえません。しかし、こうした「奴隷
狩り」のようなことは実際に行なわれたのでしょうか?
実はこれらの「証言」と呼ばれる話をくわしく調べてみると、「証言」者が連れ出さ れた、と言っている時期がまったくありえない年代であり、歴史的事実とは、かけは
なれたものであったことが証明されました。まったくありえない物語、つまり、ずい ぶん後になって、何らかの目的・意図をもってつくりあげた「フィクション」=嘘であると分かったのです。現に、これらのエピソードは平成14年版の教科書からは共に削除されています。
そもそも、明治43年(1910)の日韓併合後、朝鮮半島では警察官の半数以上、 村の村長(朝鮮では面長といいました)、その上の郡守はほとんど全員が現地の朝鮮人でした。「日本国民」となった朝鮮人は日本の政治に参加し、衆議院議員にも東京で当選し、貴族院議員にも任命されるなど、国会議員としてきちんと活躍していたのです。それにもかかわらず、朝鮮半島で「奴隷狩り」のようなことが行われていたというならば、大騒ぎになるはずです。
なお補足しますと、朝鮮では日本人も朝鮮人も選挙権がなく、内地では日本人も朝鮮人も選挙権があったのです。
もちろん、多くの朝鮮人が日本に来て、働いていたことは事実です。でも、それは「 強制連行」などという「犯罪」をイメージさせる言葉で表現されるようなものだったのでしょうか。
だいたい、この「強制連行」という言葉そのものが、戦後20年以上経ってから、嘘 の「証言」=「偽証」をでっちあげてまで、日本を非難するために作られた「造語」、
いわゆる「プロパガンダ」用語です。
では、そのような非難・攻撃を意図した言葉ができる以前、もっと言えば、多くの朝 鮮人が日本に渡ってきた当時、もっともっと限定して、彼らが「日本国民の義務」と
して日本に動員された時には、それはどのように呼ばれていたのでしょうか?答えは「徴用」(ちょうよう)です。
「徴用」とは、国家の非常時であった昭和14年(1939)から徐々に日本国民に課せられた義務であり、健康な青年男子は「徴兵」で戦場に行き、残った国民は国の
定める重要な産業に従事しました。
それも「徴用」という、「国民の義務」として、朝鮮人労働者を集めたのは、日本が 戦争に負ける前年の昭和19年(1944)の9月になってからのことでした。しかも、すぐ翌年の昭和20年(1945)の3月には日本と朝鮮の連絡船がストップしてしまったので、実際はわずか7ヶ月あまりの期間です。では、終戦当時、日本に200万人いたと言われる朝鮮人はどのようなかたちで渡ってきたのでしょうか。
・朝鮮人労働者の日本渡航 「出稼ぎ」と「募集」・「官斡旋」・「徴用」
日韓併合が行なわれた明治43年(1910)以来、朝鮮人の日本への移住者は年々 増え続け、日本列島内に住む朝鮮人は大正10年(1921)末には約3万8千人も
いました。そして、昭和2年(1927)末には約16万5千人と増加し、昭和13年(1938)末には79万9千人です。つまり、この28年の間に、日本に働き場
所を求めて、自由に渡ってきた朝鮮人たちが、80万人近くもいたのです。日本政府が朝鮮人に日本に行って働け、と命令したわけではありません。
それどころか、当時は、朝鮮人がたくさん日本に移住してくると、日本人の仕事をう ばわれてしまうことや、言語・風俗のちがいなどによるさまざまな社会問題があるた
め、きちんとした就職先や生活の見通しを持たない朝鮮人の渡航を、日本政府はきび しく制限していたのです。日本への渡航を希望する場合には、かならず証明書を必要とし、就職先や滞在費を持たない朝鮮人の渡航を認めませんでした。
丁度今日、中国人や東南アジアの人が、不法に入国しないようにしているのと同じです。 それでも、今見たように80万人近くの人が出稼ぎにやってきていたわけです。これを「強制連行」などという言葉でよぶのは、まちがいであるということは明らかですね。
その後、昭和13年(1938)になると、日本人の青年が戦争に行ってしまうこと により、国内では労働力が足りなくなってきました。そこで、働き手をおぎなうため、
日本人は大人から子どもまで工場などではたらくことになりました。
それを法律で定めたのが「国家総動員法」といい、国家の非常時に必要に応じて、国 民を「動員」できるようにしたのです。そして昭和14年(1939)4月にできた「国民徴用令」では、日本人のうち15歳から45歳の男子、16歳から25歳の女子が、国民の義務として、国の定める仕
事につくようになりました。
でも、この時点では、「徴用」されるのは、日本人男女に限られており、朝鮮人はま だ「徴用」の対象にはなっていません。
日本人男女が「徴用」され、工場や炭鉱ではたらきはじめた昭和14年(1939) になって、日本政府は朝鮮半島でも、労働力を「募集」することを解禁しました。それ以前、日本内地の企業は朝鮮半島で従業員を募集することは禁じられていましたが、
非常時における国内の労働力不足に、新しい人材を求めることを政府が許可したのです。 もちろん、これはあくまでも「自由募集」であり、決して首に縄をつけて連れてくるようなものではありません。
ところが、それぞれの企業がリクルートをはじめると、企業どうしの競争がはげしく なったり「誇大広告」にひっかかる人もでてきました。これをみて、朝鮮総督府は「
職業安定所」のようなものをつくり、企業の求人と働き手をつなぎ、トラブル防止に 努めました。
昭和16年(1941)12月の日米開戦をはさんで、戦争に行く日本人男性が多くなるにつれ、国内の労働力不足はますます深刻になってきました。
そこで、昭和17年(1942)になると、今までの自由な「募集」から、決められ た人数を割り当てて集める「官斡旋(あっせん)」という形をとるようになりました。
これは会社の事業主が朝鮮総督府に必要な人員を申しいれ、総督府が道(日本の県にあたります)に割り当て、道は郡、面に人員の割り当てを行う、つまり地方ごとに必要な人数を募集するというシステムです。
一見、「強制」に近いようですが、これを拒否したとしても罰則はありませんでした ので、日本に渡ってきたあと、もっと収入の良い働き場を求めて、逃げ出し、別の職
場で働く人もいました。たとえば、ある朝鮮人は「官斡旋」の制度によって日本に来 ましたが、なじめなかった職場を辞めて、朝鮮人が経営する土木会社に再就職し、その後もきちんと食糧の配給を受けています。
また、約1〜2年の契約期間が切れたあとは、日本に残っていても、同じ日本国民として参政権などの権利もありました。
・朝鮮人労働者の賃金
ところで、彼ら朝鮮人労働者は、まるで奴隷のように、ただ働きをさせられていたか のように思われていますが、はたらいた分の賃金はきちんと払われています。炭坑や
鉱山、土木事業などは、きつい仕事であったため、いやがる人もいましたが、その分、報酬はかなりよかったので、進んで希望した人もいたほどです。
たとえば、昭和19年(1944)頃の九州の炭坑での賃金は1日4円〜8円(平均 5円)で、これにいろいろな手当がついて月収は150円〜180円、勤務の成績のよいものは200円〜300円です。
はたらいたお金は朝鮮の親元へ送金したり、貯金したりして、だいたい平均すると、朝鮮人労働者の送金は30円〜50円程度でした。ちなみに、当時、巡査の初任給が月額45円、事務系の大学卒の初任給が75円、上等兵以下の兵隊(軍人の約8割)の平均俸給が10円弱ですから、相当な高額だったことが分かります。
さて、いよいよ昭和19年(1944)9月、朝鮮人にも日本人と同じ「徴用」が行われることとなりました。このころといえば、もう敗戦の1年前、日本にとってはこれ以上ない非常時です。日本人は男の子も女の子も12歳から「徴用」されて、さまざまな場所ではたらいていました。
「徴用」なら拒否することもできないのだから「強制連行」と言ってもいいのではな いか、といえば、全国みんな「強制連行」だらけになります。日本人は、それこそ働き盛りの青年が戦争に行ってしまっていますから、12歳の子
どもまではたらいていたのです。日本人男性が「徴兵」によって戦場に行くのも、日本人の子どもが「徴用」されて工場に行くのも、すべて「強制連行」といいますか?韓国は今現在も「徴兵」制度を維持し、男子はかならず軍隊に入りますが、これを「
強制連行」と呼ぶ人は誰もいません。
戦争末期という非常時には、日本人なら誰もが皆何らかのかたちではたらいていたのです。
「日本人なら皆」この前提は大切です。ここまでこの文章で使ってきた「朝鮮人」と いう言葉も、正しくは「朝鮮人」ではなく、「朝鮮に住んでいる日本国民」であり、当時の言葉で言えば「外地人」「半島人」「半島出身者」の「日本国民」ということになります。ですから、国民の義務としての「徴用」が朝鮮人におよぶのは自然な流れでした。
それでも、昭和14年(1939)から、すでに15歳の男の子、16歳の女の子に対して「徴用」がはじまっていた日本人よりも、戦争末期の昭和19年(1944)
になるまで「徴用」されなかった「外地」の人は、まだ特別な配慮がされていたといえるでしょう。
それよりも、何よりも日本政府や企業の関与した「官斡旋」「徴用」とは別に、自分 の意思で、それこそ「一旗あげるために」出稼ぎに来た朝鮮人が、いかに多かったかを忘れてはなりません。その数字と例をあげてみましょう。
・出稼ぎ渡航者と「強制連行」された人が一緒の船に?
まだ、自由な「募集」段階の昭和15年(1940)、企業の「募集」に応じた朝鮮人渡航者は5万3千人(厚生省統計)でした。しかし、なんと同じ昭和15年の朝鮮か
らの渡航者の総数は38万5千人です。つまり、企業が「募集」した以外に約33万人が日本に渡航しているのです。募集人員の7倍近くの人たちは日本に職を求めてや
ってきた出稼ぎ渡航者です。
このような、正規な「募集」でリクルートされた人数よりも、自分の意思で自由に出 稼ぎに渡航した人数が大幅に上まわるという事実は、ずっと変わりませんでした。
しかし、こうした自由な出稼ぎ労働者を放っておけば、本当に人員が必要な企業に、 必要なだけの人数を採用することができません。そこで、正式な「募集」に応じた者以外は、日本政府が旅費を負担して「強制送還」していましたが、その費用も馬鹿にならなかったといいます。
ちなみに昭和14年(1939)から昭和17年(1942)までの4年間で、約2万人が摘発され、朝鮮半島に送還されています。「強制」というなら、日本に「連行」してきた方ではなく、「送還」した方だったというのが事実です。ずいぶんイメージが変わってきました。
ところで、企業がリクルートしたり、政府が関与しない場合、つまり「募集」や「官斡旋」に応じたのではなく、個人的に出稼ぎに行く場合は、きびしい規制を潜り抜け
ていくことになります。それでも、日本に行きたいと思うならば、密航ブローカーに、 相当高額の手数料を支払ってまで渡航しなくてはなりません。
そこで「募集」がはじまったあと、政府が渡航費用を負担するこの制度をちゃっかり と利用する人々が増えてきました。たとえば、いったん「募集」に応じたものの、何らかの理由で渡航をとりやめた人間
の戸籍謄本をもらいうけてすり替わったり、出発の人員点呼の時、応募者がそこにいないと、代わりに勝手に返事をして、うまく集団にもぐりこんだり、という荒技も使
われました。
また、「募集」に応じたふりをして渡航の権利をもらい、日本に着いたあとすぐに、すきを見て逃走すれば、費用をかけずに日本に渡ることができるため、こうした渡航
者が後をたちませんでした。
ようするに、企業や政府が「募集」「斡旋」した人々、昭和19年9月以降には「徴用」した人々がいたと同時に、それを圧倒的に上まわる大量の出稼ぎ渡航者があふれかえっていたのです。「募集」「官斡旋」「徴用」というものが、もし「強制連行」という「奴隷狩り」のようなものであるというならば、無理やり日本に「連行」され
る人たちと、自分で高額の旅費を払ったり、密航までして出稼ぎに行く人たちとが、 同じ船に乗り合わせていたという、おかしなことになってしまいます。
・朝鮮人渡航者の証言
在日朝鮮人で、元朝鮮総連幹部の金光煕氏の手記にはこう記してあります。
「両親は南朝鮮の慶尚北道金泉郡という地方の出身だった。私が1941年(昭和16)の生まれだから、日本に来たのは1939年(昭和14)か1940年(昭和15)だろう。父の家は貧しい小作農だった。日本に来たのは、そのほうがまだ食える、という程度の理由であったらしい。村役場で『工員募集』の貼り紙を見つけ、父はすぐさま応募した。釜山の港から船に乗って下関に渡る。東京で生活の足場を築いたあ
と、母を呼び寄せた。そこで生まれたのが私だった。」
また、姜壽煕という人は、昭和17年に面長(日本の村長にあたる)と駐在所の所長か ら「日本に行け」と言われて日本にやってきた人ですが、こう証言します。
「日本は天国だと思っていました。村から日本に行った人が帰ってくると、洋服を着 て中折れ帽子を被って革靴を履いているんです。親は親で、『うちの息子は日本から帰ってきて、革靴を履いている』と自慢していました。…その頃は、朝鮮では村一番の金持ちの子どもでも革靴など履けなかったのです。…ですから、『日本に行け』と言われたとき、そんなに抵抗感もなかったのです。」
さらに、李斗煥という人も同じ頃に「斡旋」を受けています。「役所に呼び出されて『日本へ行ってくれ』と言われた。いやとも言えないしな。まあ正直いえば嬉しかったの。日本に来たくてもなかなか来られないんだから。韓国にあっても、仕事ないし、百姓ぐらいだから。おれだけじゃなくして、日本に来たがってたの、大勢いたんだ」
こうしてみると、無理やりトラックに乗せられて日本に連れてこられたり、寝ている ところを襲われて、といった「奴隷狩り」のごときイメージがくずれてきました。
・現在の在日韓国・朝鮮人は「強制連行」されてきた人たちの子孫なのか?
最後に、今現在、日本にいる在日韓国・朝鮮人は、すべてといわないまでも、ほとんどが「強制連行」されてきた人たちの子孫だと思っている人が多いことについても、ひとこと言っておかなければなりません。
終戦当時、昭和20年(1945)に日本に住んでいた朝鮮半島出身者は約200万 人でしたが、そのうち、「徴用」などで単身来日していた朝鮮人は、家族が故郷にい
ることもあって、ほとんどが敗戦とともに帰りました。占領軍の命令によって、日本 政府が運賃無料の引き揚げ船を用意し、優先的に帰国させたのです。一方、自分の意思で日本残留を希望した約60万人の人たちというのは、すでに家族も呼び寄せて生活の基盤が日本にある人たちで、ほとんどが一旗揚げるために出稼ぎに来た人々といえます。
戦後約30年経った昭和49年(1974)、日本政府は、在日韓国・朝鮮人に対し て、彼らがどういった事情で日本に来たのか、調査をしました。
このとき、日本にいた在日韓国・朝鮮人は約63万人、そのうち昭和16年(1941)から昭和20年(1945)9月1日までに来日したのは15193人だったと
いいます。
昭和16年といえば、まだ自由な「募集」でしたね。村役場の貼り紙を見て応募して きた金光煕氏のおとうさんと同じ段階です。生活が落ち着いて、奥さんを朝鮮から呼
び寄せ、子供も日本で生み育てていました。
昭和17年というのは「官斡旋」が始まり、姜壽煕さんや李斗煥さんが村長(面長) さんから「日本に行ってこい」と言われたころ、そして、昭和19年9月からは義務としての「徴用」の時期に入ります。
その間に来た人々のうちで、昭和49年当時も日本に住んでいたのは約1万5千人。 しかも昭和16年以降だからといって、さきに見たように政府・企業が関与した以外の、もっと多くの出稼ぎ渡航者がいたことを思い出さなくてはなりません。昭和15年(1940)の「募集」人員に対して約7倍の自由な出稼ぎ渡航者がいたことは憶
えていますね。
また、昭和20年の統計でも、日本内地ではたらいている朝鮮人で、企業や政府が関与した正規の労働者と「自由労働者」(当時、正規な動員以外の労働者をこう呼びました)の割合は1:7であったといいます。
つまり昭和49年段階で日本に住んでいた、在日韓国・朝鮮人63万人のうち、日本政府・企業が関わった昭和16年以降の渡航者は1万5千人、さらにそこから自由意思での出稼ぎ渡航者数を差し引けば、仕方なく日本に来た朝鮮人というのは全体のうちのごくわずかなのです。
このことからも、自主的な希望ではなく、「徴用」され、仕方なく日本に来た朝鮮人 で、戦後も日本に残ったという人の数は、もっと少なくなるでしょう。
なぜなら、いやいや日本に来た人たちが、引き揚げ船に優先的に乗れる権利を放棄してまで、敗戦して焼け野原になった日本に残る理由もありませんし、それを止める人など誰もいませんでしたから。
最後まで読んでいただいて、朝鮮人が「奴隷狩り」のようにさらわれ、ぎゅうぎゅう の奴隷運搬船に詰め込まれて、ただ同然でこきつかわれていたような、イメージは吹き飛んだと思います。
そして、今、日本にいる在日韓国・朝鮮人を、そのような「奴隷狩り」の犠牲者の子 孫だと同情的に見るのは、かえって失礼なことです。彼らのおじいさんたちは、貧し
いなかで海外雄飛の夢を抱き、海を渡った勇気ある人々であり、そのまいた種を日本で根付かせた功労者なのです。そして、長い歴史の中の一時期を同じ国民として一緒にはたらき、ともに戦ってくれた人々であることも忘れないようにしたいものです。
北朝鮮が、工作員を使って、日本人をさらっていった国家的犯罪である拉致問題と、 過去の朝鮮人労働者の日本渡航が同じだなんて、少しでも勉強すれば、すぐに分かることです。うっかり、だまされないように、きちんと正しい歴史を勉強しておきましょう。
●もっと詳しく知りたい人への推薦図書等
・『教科書が教えない歴史4』自由主義史観研究会編/産経新聞社
・『植民地朝鮮の研究』杉本幹夫/展転社
・『歪められた朝鮮総督府』黄文雄/1998年
参考サイト:
・日本政策研究センター/岡田邦宏
『朝鮮人「強制連行」問題とは何か』
『韓国・北朝鮮へ謝罪は必要なのか?』の目次へ 特集の目次へ
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