|
特集
正せ!日韓歴史教科書の誤謬と偏見

有害無益の文部省検定に愕然!

杉本幹夫(自由主義研究会理事)
|
最近日本の主な中学、高校の歴史教科書と、日本訳が発行されている1995年(平成7年)版韓国国定高校歴史教科書とについて、日本統治時代の記述について調べてみた。最も驚いたことは日本の中学歴史教科書の間違いの多さである。歴史観の違いによるものはまだしも、土地調査事業等の記述で、明らかな事実の間違いが放置されている。義務教育であり、且つ文部省検定と言うことで、間違いが事実として世界に広まる。全く有害無益の検定に愕然とした。
2点目は経済発展の視点からの記述が殆どないことである。 歴史を学ぶ最大の目的は歴史に学ぶことである。これでは「何故日本の統治下にあった台湾、韓国がこれだけ発展したのか。今後経済発展を続けるためには何が重要か」といったことを、歴史から学ぶ事が出来ないのではなかろうか。以下日本の教科書を
中心に間違った記述、一般常識の間違いについて指摘する。
土地略奪の誤謬
土地調査による土地の収奪については、調べたすべての教科書が触れている。
土地調査事業は日本が統治するに当たって真っ先に行った大事業である。土地の面積、所有者、使用状況を調査し、課税の公平を期するためのものである。韓国政府でも1895年(明治28年)乙未の改革で、この土地調査に当たる量田事業を行っていたが、政変により中断された。(韓国教科書。日本ではその前年からの甲午の改革に含める)
この頃の韓国では、永年の施政の紊乱により、いつの間にか管理人が実質上の地主となっていたり、飢饉で租税を納められない耕作者が流亡し、その跡地を無断で開墾し売買する等、権利関係が極めて不明確になっている土地が多かった。中でも最大の問題点は、駅屯土と総称される、もともとは公共用地、宮室用地であったが、実質上民間の所有となっていた土地についての、官と民の所有権争いであった。この官と民との所有権争いは、前述の乙未の改革以来のものである。この裁定に当たり総督府では数百年に亘り故事来歴を調べ、裁定した。その結果多くの土地で、民の所有権を否定し、それまでの韓国政府の主張通り、官の所有権を認めた。
土地に関する所有権の問題は難しく、十年や二十年の時効では、不法占拠者に極めて有利となり、本来の地主の不満を買う。かといって何百年も
実質的に土地を保有している人が、「元は不法占拠であった」として土地を接収された場合の不満は大きい。
このような理由で総督府に接収された土地は、山本有造『日本植民地経済史研究』(名古屋大学出版会)によれば、約12万町歩に及ぶ。又定められた期間に申告しなかったり、所有権を証明する書類がないため接収された耕地が約2万7千町歩あり、接収された耕地は合計14万7千町歩である。当時の全耕地面積は450万町歩であり、約3%である。
これに正当な売買により取得した土地を加えた、1922年(大正11年)末の日本人農業者所有土地面積は、一般地主17万5千町歩、東洋拓殖8万町歩、合計25万5千町歩で、全耕地面積の6%弱である(朝鮮総督府『調査資料2-7
朝鮮における内地人』)。
これに対し大きく間違った記述をしている教科書を第1表に示す。韓国教科書、桐原書店の40%とか半分以上と言う数値は何処から出てきたものであろうか。
第1表 土地略奪についての各教科書の記述
| 韓国教科書 |
土地調査事業により、全国農地の40%以上を略奪 |
| 桐原書店(高校) |
全耕地の半分以上を接収 |
大阪書籍(中学)
三省堂(高校)
|
全羅北道の1920年、31年の土地所有者、所有面積の%を図示、日本人個人の土地保有面積は20年、31年共に45%
日本人会社は22%が37%に増加 |
| 清水書院(中学) |
国とごく少数の地主しか所有権を認めなかった |
この理由についてのヒントは全錫淡他著、梶村秀樹他訳『朝鮮近代社会経済史』が与えてくれる。因みに全錫淡氏は北朝鮮の科学院歴史研究所近世・最近世史研究室長を勤めた北朝鮮における経済史研究の第一人者であり、梶村秀樹氏は著名な朝鮮史研究者である。
この本によると、「駅屯土として国有地に編入された耕地面積は13万4千余町歩で、全耕地の5%に当たり、この駅屯土の小作人は33万2千余名に達した。この他にも田畑及びその他各種の土地90余万町歩を、いわゆる国有未墾地の名目で大量略奪した」と書いてある。この5%と言う数値から、この時の全耕地面積は270万町歩としていることが分かる。未墾地と認定された90万余町歩を含めた接収面積は100万町歩以上となり、韓国教科書の40%以上との表現と合致する。所がこの3頁後には「土地調査の結果、課税地総面積は424万8千余町歩となり、従来の課税地総面積286万7千余町歩に比べて46%増加した」とある。即ち耕地面積約280万町歩余と考え、土地調査したところ、全耕地面積は420万町歩以上あることが判明し、その他に調査面積の中に未墾地約百万町歩あったのである。そしてこの未墾地は持ち主不明と言うことで接収されたのである。尚山本有造も、土地調査で未墾地約百万町
歩を接収したことを認めている。この未墾地として接収された土地はあくまで未墾地であり、その後の統計でも耕地面積に含まれない土地であり、耕地面積の比率に含めることは妥当ではない。
次に三省堂の日本史A、大阪書籍で引用されている東畑精一他『朝鮮米穀経済論』(日本学術振興会)を当たった所、この数字は全羅北道全体の数値ではなく、全羅北道所在の五つの水利組合の合計値であることが分かった。又記
載された1920年と31年の間には、全体の土地面積は1.4に拡大している。即ち日本人農家が水利の改善に熱心だったことを示すものでしかない。この数字をもって全体を類推させる悪質な表現方法である。
又清水書院は「国と少数の地主しか土地の所有権を認めなかった」と書いているが、朝鮮では人口2千万人に対し、土地調査完了時、土地所有を認められた人は187万人もあり(萩原彦三『朝鮮の土地調査』友邦協会)、明らかに間違いである。
日本・満州への移住の原因は人口の増加
殆どの教科書では上述の「土地調査により土地を奪われた農民は内地や満州への移住を余儀なくされた」と記述している。
第2表に各十年間の移住者数を示す。併合により移住者数が急増したことは確かであるが、土地調査とは無関係に移住者数が増えていることが分かる。
第2表 内地、満州への移住者数
|
1910年まで
|
112千人
|
|
1911-1920年
|
388千人
|
|
1921-1930年
|
526千人
|
|
1931-1940年
|
1,472千人
|
これは朝鮮の人口の増加によるものである。統計がほぼ正確になったと思われる、1916年から1940年までの人口増を内地と比較する。内地では34%の増加に対し、朝鮮では42%増えたのである。この間日本人は朝鮮に約30万人移住したのに対し、朝鮮人は満州、内地に合わせて200万人以上移住したのである。もし朝鮮人の内地、満州への移住がなかったら、人口増加率は更に10%近く増える。医学の進歩と、衛生の改善により死亡率が減り、農業以外に生活の手段がなかった当時、これだけの人口増を支えるためには移住しか方法はなかったのである。
会社令による民族企業の抑圧
会社令について触れている教科書は少ないが、教育出版の中学教科書では「会社の設立も許可制として、朝鮮人の会社は出来るだけ作らせないようにした」と書いており、韓国教科書も「民族企業の成長の抑圧」と非難している。
会社令は1910年(明治43年)から1920年(大正9年)4月まで10年間施行されたものである。
併合時総督府では「請願者の多くは[会社とは何か]と言うイメージすらなく、利権確保の手段として会社を設立する傾向がなきにしもあらずであった。従って往々狡猾者の甘言に騙され、不慮の損失を招く恐れがあった。又有望な事業に多くの業者が林立し、無用な競争をし、多くの損失を招く恐れがあった」と会社令制定の理由を述べている。(小林英夫編『植民地への企業進出、朝鮮会社令の分析』柏書房)従ってこの政令は内地人、朝鮮人を問わず適用された。この間に設立
許可された会社数は、第3表の通りであり、併合前の数字との比較から見て、極端に 朝鮮人企業が抑圧されたとは思えないが、このような許可制の下では依怙贔屓があったと思われても仕方がない。
第3表 会社令による設立会社数
|
|
併合以前
|
1910-1915
|
1916-1920
|
|
日本企業
|
172
|
96
|
302
|
|
朝鮮企業
|
28
|
28
|
101
|
|
合計
|
200
|
124
|
403
|
米の飢餓移出とアメリカのフィリピン切り捨て
米の飢餓移出は、桐原書店の高校教科書が米騒動との関連で「米の不足を補うため、1920年代に朝鮮と台湾で産米増殖計画を実施し、生産増分を遥かに上回る大量の米を日本へ移出した」と記述している程度で、日本の教科書では大きくは取り上げられていない。
韓国の教科書では1920年(大正9年)から1933年(昭和8年)まで一年置きの米の生産量と日本への移出量の表を提示し「生産量の増加を上回
る米を収奪し、農民の大多数は飢餓線上にあえいだ」と非難している。日本の植民地支配の厳しさの証拠として盛んに言われる問題である。
昭和初期は昭和恐慌として名高い時期である。1925年(大正14年)から1931年(昭和6年)にかけ米の価格は3分の1に暴落した。内地では価格の暴落は、朝鮮、台湾からの安価な米が無制限に入ることが原因であると言われ、(この植民地米による米価の低落については山川の『日本史B』でも認めている)農林省では内地農民の保護のため、朝鮮、台湾からの移入制限を主張した。それに対し朝鮮総督府は朝鮮農家の保護を要求し、陸軍の応援を得て、移入制限を拒否し通したのである。これに怒った石黒忠篤農林次官は辞表を出している。
即ち米騒動のあった大正時代は、日本は米不足で、台湾、朝鮮からの米を欲したが、昭和に入ると各地とも増産体制が整い、不況による消費の減少もあり、米余り時代に入っていたのである。朝鮮では米に代わる換金作物が無く、衣類その他を買うためには米を売る以外に方法はなかったのである。
この時代アメリカでは同じように砂糖、椰子油等をめぐり、フィリピンとの貿易摩擦が問題となっていた。更にフィリピンからの移民と労働組合
との労働摩擦が加わった。この圧力により、1935年(昭和10年)フィリピン自治政府 が発足し、10年後の独立が決まった。アメリカは総督に代わり、拒否権を持つ高等弁
務官がいるだけで、殆ど独立に近い形になった。即ちフィリピンは独立を勝ち取ったが、実質はアメリカのフィリピン切り捨てだったのである。日本でも議会等で朝鮮切り捨てを主張する人がいたとの事である。(宇垣一成述『松籟清談』文芸春秋新社)
即ちアメリカはフィリピンを植民地と考え、自治政策をとり、遂には独立させた。つまりあくまでアメリカとは違う民族、国と考えたのである。それに対し日本は朝鮮を併合し、将来的には完全に一つの国となるよう運営した。その違いがインフラ整備の違いとなって現れ、工業化の度合いの違いとなって現れたのである。
ハングルの普及は日本統治の成果
日本語教育に関する各教科書の記述を第4表に示す。併合時、日本語の教育が強制されたことは書いてあるが、朝鮮語も必修科目であったことは書いていない。
第4表 日本語、朝鮮史に関する各教科書の記述
| |
併 合 時 |
日中戦争発生時 |
|
韓国教科書
|
朝鮮語の代わりに日本語を強制された
|
朝鮮語教育と朝鮮史教育は一切禁止され、抵抗した学校は閉鎖 された |
|
大阪図書
(中学)
|
学校では日本語や日本歴史を強制的に教えました |
|
|
東京図書
(中学)
|
朝鮮史を教えることが禁止され、日本史や日本語を教えた |
日本語の使用を強力に推し進めた |
|
教育出版
(中学)
|
日本語を国語として強制し朝鮮の歴史や地理より、日本の歴史 や地理を教えた |
|
|
清水書院
(中学)
|
|
日中戦争が始まった頃には日本語の使用を強制し |
|
山川出版
(高校)
|
|
日本語教育の徹底 |
日本が普通学校(小学校)で朝鮮語教育を止めたのは1941年 (昭和16年)である。1938年(昭和13年)には選択制になったが、朝鮮人校長の学校
ではすぐ朝鮮語教育を止めたのに対し、日本人校長の学校の方が続けたとの事である。(八木信雄『日本と韓国』日韓文化出版社)いずれにせよそれまでの30年近くは朝鮮語は必修科目だった。
又官庁では1939年(昭和14年)まで朝鮮語の学習を奨励する 朝鮮語奨励費が支出されており、約30年為政者は朝鮮語を学び、朝鮮人には日本語を学ばせ、意思の疎通を図るよう努力したのである。
開国以前の朝鮮の正式の文書はすべて漢文で書かれていた。その為ハングルは諺文と軽視され、寺子屋に当たる書堂でも教えない所もあった。
かし表音文字であるので、字数が少なく、自然にかなり普及していた。
1882年(明治15年)アメリカへの開港により、急速にキリスト教が流入した。彼らは布教にハングルを使った事により、ハングルの普及に貢献し
た。
新聞にハングルが登場するのは、1886年(明治19年)発行された『漢城週報』である。朴泳孝の要請を受け、編集に携わっていた井上角五郎が、福沢諭吉の「ハングルを使って日本の仮名混じり文の様な文体を作り、文明化しなければならぬ」との意見を入れ、漢字とハングルの混淆文で書いたのが始まりである。
ハングルが急速に普及するのは日清戦争で韓国が清の宗主権を脱してからである。ナショナリズムの高揚する中で、ハングルを使った新聞が次々に発行された。又公用語としてのハングルが初めて認知された。
1910年(明治43年)併合後の日本は学校教育では朝鮮語を必修課目とした。この教科書の作成を通じ、綴字法の統一、標準語の制定、普及が進んだのである。勿論韓国教科書で主張する朝鮮語研究会、朝鮮語学会が大きく貢献した事は言うまでもない。
朝鮮語は1937年(昭和12年)まで必修であり、その間に初等教育の普及は大幅に進んだ。併合時書堂を含め、10%程度だった就学率は1937年には36%に達している。これと共にハングルは普及したのである。ハングルの普及に最も貢献したのは、朝鮮人自身としても、日本の貢献も合わせて評価すべきである。
朝鮮史の研究・教育
朝鮮史教育についての各教科書の記述も第4表に示す。日本語の禁止と共に朝鮮の歴史を歪曲し、教えなかったと非難されている。
総督府は1915年(大正4年)景福宮に総督府博物館を設けたのを始め、慶州、開城、平壌、扶余、公州に次々に博物館又は分館を設け、過去の貴重な遺物の収集をし、古蹟の調査・保存を行った。
更に1922年(大正11年)には朝鮮史編纂委員会を設け、1941年(昭和16年)まで毎年5万円から10万円投資し、アジア各地から資料を集め、新羅統一以前から李朝後期まで、全35卷、2万4千頁の朝鮮史を刊行している。問題のある箇所も多々あるとは思うが、古代、秀吉の朝鮮侵攻時、近代の三つの時代を除けば、殆ど合意できる筈であり、貴重な資料となっている。
又授業でも日本史の一環として朝鮮史にも配慮されていたのである。歴史教育が始まったのは、初等教育が四年制から六年制に延長された1921年
(大正10年)からである。1932年(昭和7年)に発行された国史教科書には朝鮮史に関連する事項として「昔の朝鮮」「三国の盛衰」「新羅の統一」「高麗の王建」「高麗と蒙古」「朝鮮の太祖」「李退溪と李栗谷」「英祖と正祖」と言った項目がある。
1940年(昭和15年)の教科書の改訂は時代順の記述を止め、例えば「都のさかえ」「太平のめぐみ」「海外のまつりごと」「制度のととのい」「世界の動き」「国力のあらわれ」と言った具合に、テーマ毎に歴史を学ぶ極めて意欲的な編成をしている。従って題名からは朝鮮の歴史が消えたが、それぞれのテーマの中で相当量取り上げられている。(森田芳夫『韓国における国語・国史教育』原書房)
創氏改名の誤解
創氏改名については、殆どの教科書が「強制された」と書いている。この件についてはかなりの誤解がある。この政令は1940年(昭和15年)朝鮮と台湾で同一日に施行された。所が朝鮮では約80%の人が創氏改名したのに対し、台湾では僅か2%弱に止まっている。即ち日本の政策と言うより、総督の対応の違いが
問題視されているのである。今日在日韓国人が日本的な通称を持ったり、アメリカ在住の韓国人・中国人がアメリカ式な名前を付けるように、特に日本への移住者に日本式の名前に変更を希望する人が多かった。そこで本国では、希望する人は日本式の名に変えても良いとしたのが基本である。それに対し台湾では、支那と交戦中だったこともあり、台湾人が無制限に日本人の名を名乗ると、日本人と区別が付かなくなるのを怖れた。その為日本語愛用家庭のみと制限し、厳格に資格審査をした。一方朝鮮は「古来心を整える第一の道は形を整えることである」とし、出来るだけ創氏改名を奨
めたのである。どちらが住民の為を思った措置か疑問であるが、結果的には朝鮮での非難が厳しいのに対し、台湾では非難は少ない。
更に朝鮮では姓の持つ意義は重大であり、姓を奪ったと非難されているが、姓はなくなったのではなく、お倉入りしたのである。即ち姓は戸籍に残るが、氏を作り(創氏)通常は氏を使うことにしたのである。尚台湾は改姓名である。
強制を非難されているが、洪思翊中将を始め、数人の道知事は朝鮮名のままであり、何ら差別を受けていない。しかし末端官僚(面長、郡守は原則として朝鮮人であったので、日本人のみとは考えにくい)の点数稼ぎの競争によ
り、強制があったことは否定しがたい。尚、南総督は「強制するな」と三回も通達を出している。
強制連行の嘘
強制連行についてはすべての教科書が取り扱っている。韓国 教科書では「徴兵制や徴用制により強制動員された」と記述している。拉致を意味する強制連行とは書いてなく、又徴兵と徴用を同格に扱った妥当な表現である。
それに対し日本の教科書では朝鮮人の就職に際しての官斡旋、徴用について強制連行としているのは、明らかに間違いである。これを強制連行と言うなら、「朝鮮人の若者は軍需工場や炭坑に強制連行され、日本人の若者は戦場に強制連行された」と書くべきである。
朝鮮で官斡旋が始まった頃は、内地・台湾では既に徴用が始まっていた。朝鮮ではまだ多少労働力に余裕があったので、刑罰を伴う徴用ではな
く、官による斡旋となったのである。官斡旋・徴用はあくまで所定の場所に出頭を命 じられ、所定の勤務先に移動したのである。
日本の中学教科書(教育出版)には金大植の例が述べられている。この人の例では「寝ているところを、警察官と役場の職員に徴用令状を突きつけられ、手錠をかけられたまま連行された」とある。所が朴慶植『朝鮮人強制連行の記録』(未来社)に同一事例が記載されている。但しその前段に七回拒否し、逃げ回っていたと書いてある。徴用拒否は一年以下の懲役である。手錠をかけられ連行されても仕方がない。又同時に七回も拒否できた事が分かり、強制連行のイメージがすっかり変わってくる。
又大阪書籍の中学教科書では、強制連行の様子とし「町を歩いている者や、田んぼで仕事をしている者など手あたり次第、役に立ちそうな人は片っ端から、そのままトラックに乗せて船まで送り、日本に連れてきた。徴用と言うが、人さらいですよ」と記載されている。これは明らかな犯罪である。これと同じ様な話を慰安婦問題で吉田清治が書き、大きな波紋を投げたが、後に吉田自身の創作であったことを告白している。当時日本の村長に当たる面長、その上の郡守は原則朝鮮人である。警官も半数近くが朝鮮人である。又衆議院には東京四区の朴春琴が昭和17年4月の総選挙で落選したとは言え、その直前まで議席を有し、貴族院では昭和18年10月より李家軫鎬が議席を有している。この様な犯罪が多数あれば、彼らが黙っているだろうか。国会や検察が動き、場合によっては暴動となる筈であるが、終戦の
日まで治安は維持されている。尚台湾では厳しすぎる寺廟整理運動(神道の強制に伴う伝統宗教の弾圧)が国会で取り上げられ、中止に追い込まれている。総督府の行き過ぎた政策に対する修正が台湾人には出来、朝鮮人には出来なかったとは考え難い。出典について再検証する必要がある。
朝鮮で徴用令が施行された時、小磯国昭総督は、自ら陣頭にたち、関係官を徴用事業所に派遣し、労働条件の悪い所には割り当てを減らす等の措置により、改善を指導している。又徴用拒否者に対し、当初厳罰を避けたため、目標数の79%しか調達出来なかったと言われる。
韓国教科書では「女性までが挺身隊という名目で連行され」と書いているが、慰安婦と誤解される表現であり、正しく「軍需工場等に動員された」と書くべきであろう。慰安婦問題は色々な本に書き尽くされているので省略する。
注:以上は『月曜評論平成11年4月25日』掲載論文の下書き部分であり、同論文とほぼ同一。
調査対象教科書
|
国定
韓国高校
歴史教科書
|
宋連玉・チョ昌淳訳
『韓国の歴史』
|
明石書店
1997年
|
|
1997年
文部省認定
日本高校
歴史教科書
|
『詳説日本史』
|
山川出版
|
|
『新日本史B』
|
桐原書店
|
|
『日本史B』
|
実教出版
|
|
『日本史A』
|
山川出版
|
|
『日本史A』
|
東京書籍
|
|
『明解日本史A』
|
三省堂
|
|
|
『新しい社会歴史』
|
東京書籍
|
|
『中学社会歴史的分野』
|
大阪書籍
|
|
『中学社会歴史』
|
教育出版
|
|
『中学社会歴史的分野』
|
日本書籍
|
|
『中学校歴史、日本の歴史と世界』
|
清水書院
|
『韓国・北朝鮮へ謝罪は必要なのか?』の目次へ 特集の目次へ
|