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日本とは「和の国」「神の国」である


杉本幹夫(自由主義研究会理事)

日本は「和の国」である。西暦603年聖徳太子が制定した、我が国最初の成文法である一七条の憲法には、その第一条に「和を以て尊しとなす」とある。

又明治維新の後、明治天皇が新しい政治の大方針をまとめた五箇条の御誓文でも、その第一に「万機公論に決すべし」とある。大東亜戦争当時の日本は独裁国家と非難されているが、一体誰が独裁者だったのか。確かに東条英機は総理大臣・陸軍大臣・参謀総長等を兼任し、独裁体制を整えた。しかしこれは大戦中の業務推進をスムースに行うための処置であり、形勢が不利になると、僅か在任三年弱で辞任に追い込まれている。

昭和天皇は政治には原則として介入されなかった。介入されたのは、終戦の決断と、二・二六事件等極めて数少なかったと言われている。明治憲法に「天皇は神聖にして犯すべからず(第三条)」とある事から、天皇の独裁と言う人がいるが、「天皇は帝国議会の協賛を以て立法権を行使する(第五条)」「緊急の場合、法律に代わる勅令を出せるが、次の議会で承認されなければ、この勅令は失効する(第八条)」とあり、あくまで議会に立法権があった。

軍部独裁と言う人もいるが、軍部とは不特定多数である。軍部の発言力が強かったことは事実としても、強硬派も慎重派もおり、他部門との協調も必要である。不特定多数の独裁とは、独裁という言葉の定義に反する。 戦前アメリカの外交官だったラルフ・タウンゼントは、「アメリカの新聞が『独裁国家対民主主義の戦』と主張しているが、独裁国家と非難される日本は民主主義国であり、民主主義国に入っている国の中には、中国・ソ連を始め、独裁国家が一七国もある」と言っている。

日本人は一貫して争いを好まず、出来るだけ話し合いで物事を解決しようとしてきた民族である。しかし同時に「武の国」として、不正を許さない国でもあった。この「武の国」の側面は次回に述べる。

然からば聖徳太子は何故一七条の憲法の冒頭に「和を以て尊しとなす」と書いたのであろうか。私は日本古来の神と伝来の仏教との和解だったと思う。

欽明天皇時仏教が伝来し、仏教を信じる蘇我氏と、在来の神道を信じる物部氏の対立が始まった。遂に587年蘇我氏は物部氏を攻め滅ぼした。この物部攻めに太子は蘇我の一門として加わっている。 聖徳太子は仏教に深く帰依していた。しかし五九九年の大地震、602年の征新羅軍将軍木目皇子の病死とそれに伴う新羅征討軍の派遣中止等、何らかの理由により、神道との和解が必要となったのであろう。

聖徳太子は「日本の神々を幹として、仏教を枝として延ばし、日本を豊かな国にしていこう」と諭されたとのことである。この結果日本の神仏は混淆し、神社と寺院が同居するようになった。そしてあらゆる神に敬虔な「神の国」が出来たのである。森元首相の「神の国」発言が非難されたが、神様も仏様も、キリストにもマホメットにもそれぞれの素晴らしさを認め、それぞれの神に敬虔である。森羅万象すべてに神が宿ると考える。まさに「神の国」だと思う。

無実の罪で筑紫に流された菅原道真は天神様と崇められ、国に反乱した平将門も将門神社や神田明神に祀られる。戦争が終われば敵方の戦死者を含め、厚く葬る。死者に鞭打つより、死者の呪いを解放しようと言う意味もあるように思う。世界の各地で宗教をめぐって戦争が起きているが、日本では考えられないことである。

日本で宗教戦争が起き得ない今ひとつの理由は、「政治の宗教に対する優越性」である。同じ宗教でもカソリックとプロテスタントの戦い、シーア派とスンニ派の戦いがある。更にユダヤ教、キリスト教、イスラム教は元を正せばすべて旧約聖書に行き着く。彼らが争いを繰り返すのは、一神教で他の神を認めないこともあるが、権限を持った仲裁者がいない事もある。即ち政治が宗教に優越することが、世界の平和のために必要なことなのだ。

日本における「宗教に対する政治の優越」を確立したのは、織田信長である。比叡山の焼き討ち、石山本願寺攻めで、宗教の呪縛を解き放った。豊臣秀吉のバテレン追放、徳川幕府の鎖国も「神の絶対優位」を求めるキリスト教を危険宗教と認識したからであろう。秀吉・家康は信長の武将として比叡山・本願寺と戦った。特に家康は今川から独立直後の青年時代、一向一揆に大変苦しんだ。

恐らく鎖国しなければ、キリスト教信者の大名が各地に出来、ヨーロッパの宗教戦争の余波を受けた可能性が高い。この信長から家康に至る決断こそ徳川300年の平和を作ったと考える

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