特集
戦後日本の驚異的経済成長U
日本の経済成長の要因と理由


奥田征夫(自由主義史観研究会会員)

Q4:日本だけが何故このような驚異的な発展をとげられたのでしょうか?

A4:大きな難しい課題ですが、概略を簡潔に述べれば次のとおりです。

―1980年代までに日本は大躍進を遂げますが、それを可能にしたのは、優秀な労働力を提供した教育制度、政府と企業が共同で進めた産業政策(日本株式会社)、安定した労使関係に基づいた労使協調(終身雇用制や企業内労働組合)、社内の根回しによる共同歩調コンセンサス経営、組織内の縦割り系列に追加された横断的な情報共有意思疎通などです。
それでは、個々の事項について以下詳細を説明いたしましょう。
    
先ず、60年前の話から始めましょう。
昭和20年(1945年―終戦の年)に地方都市で生れた日本人の平均的な人生を垣間見てみましょう。  
10歳のとき(昭和30年―1955年)この人の家にどんな電気製品があったでしょうか。
テレビ、電気冷蔵庫、電気冷凍庫、電子レンジ、トースター、エアコン、テープ・レコーダー、CDプレイヤー、電話機、電気掃除機、電気アイロン、電気洗濯機、自動沸し式風呂、水洗トイレ、携帯電話機、パソコン、カメラ、自動車、オートバイなどなど、これらは一切ありませんでした。
自転車と電気扇風機は多分ありました。子供は、夜寝るとき雨戸を開けて風通しをよくし、蚊を防ぐために蚊帳(かや)を吊って寝床に入り、団扇(うちわ)で暑さをしのいで寝付いたものです。寝る前に薪を焚いて五右衛門風呂に入りました。

この人は現在59歳、上記の家庭製品は現在全てもっていますし、さらにデジカメやDVDプレーヤーなど多くの最新式器具、用具を愛用していることでしょう。自動車は夫婦用として2台持っているかもしれません。
 いつの時代も進歩はあるものですが、この60年の進歩には目をみはるものがあり、人々の生活は驚くほど便利になり、快適さを楽しめるようになりました。「昔は貧しかった」、これはいつの時代でも人々が口にする言葉でしょう。戦後60年敗戦による廃墟の中の貧しさから「坂の上の雲」を見つめて貧しさからの脱却を目指した努力が戦後30年で花咲いたのです。
  
では、これまで述べてきた経済発展の理由、要因、原動力は一体なんだったのでしょうか、ここでジックリと考えてみましょう。


1)歴史―教育―寺子屋

1.教育の歴史

一国の科学技術力は一朝一夕に充実するものではありません。長年の歳月をかけた教育の土台がないと科学技術は発展しませんし、産業も興隆しません。世界の歴史を見れば一目瞭然です。

上述の通り日本の鉄鋼業や造船、自動車産業には明治時代からの学問・技術の蓄積が裏打ちとしてありました。これらを可能にしたのはまさに教育の力です。日本人は昔から教育を重視してきました。江戸時代末期に全国津々浦々にできた寺子屋は庶民の教育の場でした。

子供達は決められた日の決まった時間に寺子屋に通い、「読み、書き、ソロバン」を習い、行儀作法を叩き込まれました。特筆すべきことは、都会で女子は生徒の半数を占めていたことです。商家のおかみさんになるには文字を読み、書き、計算することが不可欠でしたからです。武士の子供には、藩校や私塾が開かれており、厳しい学問修行を行わねばなりませんでした。寺子屋の起源は室町時代に遡りますが、19世紀初頭に隆盛を極め全国に存在するようになりました。明治政府は明治5年(1873年)に学制を発布し全国に小学校を創りますが、それは寺子屋と私塾を衣替えしたもので全国に2万校もできたそうです。

16世紀に日本にやってきたキリスト教宣教師は膨大な書簡をイエズス会本部に送っており、そのお陰で西洋人が見た当時のわが国の様子を窺い知ることができますが、アジア各地を回ってきた宣教師達は日本で一般庶民の識字率の高さと規律正しい態度に驚嘆していました。
       
現在日本には800ほど大学があります(短大も含めて)。ア メリカを別にすれば先進国でこのような大学の多さは特筆に価 します。イギリス、フランス、ドイツ、イタリアでは一国に大学 は100もありませんし、しかも私立大学は極めて少数です。
わが国では大学進学率は現在ほぼ50%にまで達しています。多 数の理工系大学や学部、さらに高等工業専門学校まで入れると自 然科学系専攻学生は大変な数にのぼります。彼等は会社に入ると 徹底的な社内教育を定期的に受けさせられ、優秀な社員は社費で 外国留学もできるようになっています。企業も教育に力を入れています。

国が興るも廃れるも教育の力によります。日本人は300年 も前から子弟の教育に力を注いできました。

2.規律とキチンとした態度

日本を訪問したことのある外国人に日本の印象を一言でいうとどうですかと尋ねると、ほとんどの人はいいます。「日本人は親切で態度がキチンとしている」と。そうです、これは日本人の気質なのです。キチンとした態度は近代工場生産に不可欠の条件です。丁寧な溶接に心を配り、ネジを手順書どおりに最後まで手を抜かずにギューと締める。この単純な作業が高品質製品の基礎になっています。日本人は生来手先が器用で、それに加えて最後まで作業をおろそかにしないまじめな性格をもっています。

3.自主管理活動-QC運動

工場では現場製造部門の社員が、会社の命令でなく自発的に生産・品質改善活動に取り組んでいます。仕事を終えてから、会議室に集まり、残業手当は払われませんが何時間か議論を重ね問題点とそれらの改善策を工夫考案し、会社に提案し、実行していきました。QCとはQuality Controlの略語ですが品質改善活動はわが国のほとんどの企業で自主的に考案実行されたのです。これらの活動は会社に多大な貢献をしました。品質はよくなり、歩留まりは向上し、顕著なコスト削減が実現し、製造時間は大幅に短縮され、無駄を省き大幅な在庫削減を可能にして、会社の製品力を高めました。

4.道徳心-卑怯を嫌う日本人の心

平成7年(1995年)阪神大震災が起りました。ちょうど私はイギリスに住んでいて英国放送(BBC)のテレビ報道で悲惨な地震災害を涙して見ていました。BBCは街の情景を特派員の解説で報じていましたが、場面はとあるスーパー・ストアの入口で長蛇の列を作って店の開店を待っている住民の長い行列でした。イギリス人記者は、「イギリスの皆さん、日本人はこんな悲惨な災害の最中にあっても略奪行為は一つも起さないのです。」と報道していました。店の扉を蹴破って侵入し商品を奪い去ろうとする不埒(ふらち)な者は誰もいません。そうです、「火事場ドロボー」を日本人は憎みます。ところが世界の動乱を見てみましょう。つい昨年起こったイラク戦争中に民衆は国立博物館や大統領官邸に押し入り略奪の限りを尽くしました。ユーゴスラビア内戦でも似たような火事場ドロボーは日常茶飯事だったようです。

教育とは知識のみを意味しません。教養と高潔な精神の涵養が教育の本質です。ところが最近、電車の中でだらしない若者が目立ちます。無頓着に携帯電話で長話、ハンバーガーをぱくつく、化粧に余念のない若い女性、床にべったりを腰をおろし車座になってワイワイしゃべりまくっている高校生達、まさに傍若無人の振る舞いで50歳代以上の年輩の日本人は、これらの若者達を見て顔をしかめます。「なんとかならんもんか」と。このところ「反日・革命」を目指す共産主義者教員の無責任で偏向した教育のために、わが国の教育は非常に異常な状態になっていますが、普通のまともな日本人は上記の日本人の優れた気質とそれを育んだ伝統的な教育に強い誇りをもっています。


2)進取の気性と独自の工夫


1.進取の気性

   
日本人には異国の物を取り入れ、工夫改良し自分独自のものに作り変える才能があります。飛鳥・奈良時代に本格的になった大陸・朝鮮半島渡来の文物から明治時代の西洋文明導入、第二次世界大戦後の欧米からの最新工業技術導入に至るまで、歴史的に日本人は多くのことを外国から学び、そしゃくし、自分の血肉となし、最後に自分独自の優れたものに作り変えてしまうのです。この意味で進取の気性が日本人に満ち溢れていました。
鉄鋼業はその代表的な事例を提供してくれます。近代的な大製鉄所建設にあたり各種製鉄関連設備が導入されましたが、当初はほとんど欧米から輸入していました。新しい設備が開発されとの情報に接すると、日本から調査団を送り見学研究に没頭し、その価値を見極め、大金を支払ってライセンスを取得し技術の使用権を購入し、実際の生産で実行しました。試行錯誤の繰り返しのうちに、付随的な改良技術を多数発明考案しました。設備操業についてもノウ・ハウが山のように蓄積され、日本鉄鋼業は昭和40年(1965年)代には早くも欧米鉄鋼メーカーに技術を逆輸出するまでに実力をつけたのです。

2.フル・セット生産体制-一国で全て生産できる産業構造

わが国の製造業発展の背景にあるのは独自の高い技術力を誇 る中小企業の存在です。中国や東南アジアに現在進出している日本 メーカーが直面している難題は、現地に高品質部品メーカーが揃 っていないことなのです。
2〜3万点の部品を必要とする自動車生 産では、近くに優れた部品メーカーが存在するかどうかが死活問題 となります。わが国には東京都大田区や東大阪市に群立していた中 小部品メーカーの例に見られるごとく、産業の裾野が広く、乏しい 天然原料さえ輸入すれば後は全て国内の企業が役割を分担してハイテク製品を完全に自国内で生産できました。これは品質管理の上でも画期的な産業構造で、日本製品の品質の良さに直結しています。

3.故障が少ない日本製品と顧客サービス

自動車を20年運転すると分りますが、一流の外国車と比較し て日本の車は故障が非常に少ないのです。アメリカで1970年代から日本車がものすごい勢いで売れ始めた理由は、オイル・ショック後のガソリン代高騰もさることながら、大平原を突っ走る高速道路で長距離運転を常態とするため、車は故障しないという信頼感が不可欠です。日本製品は故障が少ないと世界で好評を博しました。

大衆向け商品(自動車、テレビ、カメラなど)は販売後1年間 の保証がついており、海外販売にあたって、アフター・サービスのために地域ごと(あるいは国ごと)にサービス拠点を設立する必要があります。直営が望ましいのですが、経費がかかりすぎることが多く現地の代理店に委託することも一般的です。また、産業機械製造会社も、顧客サービスのため現地に拠点をかまえ顧客満足度向上を図っています。ヨーロッパの場合を例に取ると、ロンドンやフランクフルトに欧州統括会社を置いて、主要な国に現地法人を作り販売と保守サービスにあたります。日本のあるメーカーの実例ですが、ポーランドの田舎町の工場で購入設置された機械の側面に数枚の紙を入れた箱が取り付けてあったのを私は見て、なんだろうと、紙を取り出し文字を読みました。ポーランド語と英語で書かれていました。
「この弊社納入の機械が故障した場合、下部の余白に故障の概要を記述し、ドイツにある弊社の下記会社にファックスでお送りください。日中であれば8時間以内に対応の連絡をいたします。」という趣旨の告示が書いてありました。

欧米諸国は、日本は欧米のモノを買ってくれないと盛んに文句 をいったことがありましたが、社員を日本に送り日本語習得にあたらせるか、あるいは日本人を大量に雇い日本の市場に食い込み、故障の際の迅速な対応方法まで明示してモノを売り込む努力を果たしてどれほど真剣にアメリカの会社は1980年頃までにやってきたでしょうか。日本はそれこそ死にもの狂いで実行してきました。トヨタやキッコーマンがアメリカで始めて自社製品販売に成功するまでの涙ぐましい奮闘物語の数々が、その後の日本の大躍進につながったのです。


3)大量生産とプロセス・イノベーション(生産工程革新)

1.日本の得意な大量生産


日本の大企業は大量生産と均一品質製品生産を得意としています。これを可能にするためには生産設備の効率化、工程の簡素化、異常の早期発見と解析改善、半製品検査の厳密化、モデル切り替え時の迅速な生産ライン変更調整、作業員の技能向上、原材料の適正在庫と適時適正量納入システム (Just-In-Time System) など多くの要因が絡みあった総合力発揮が必要とされます。 家電、自動車、鉄鋼などの大量生産分野では、ここで述べる諸要因が総合的にうまく作動して、1980年代は日本的会社経営方式が世界的に注目されました。

2.生産・工程革新

製造業には「歩留まり」という概念があります。これは良品 が全生産量に占める割合であり、95%とか98%とかの数字で表されます。良品しか次工程に流せないし、商品として出荷もできませんので歩留まり向上にメーカーは躍起となります。いずれのメーカーも高品質の良品をいかに歩留まりよく、コストを削減して生産するか必死になって模索してきました。その結果、生産工程の改善改良が止まることなく追及され、日本製品の国際競争力を一層高めることに貢献したのです。電子機器業界ではベルト・コンベア式の生産方式、あるいは、生産工程が直線につながったライン方式が長年常識でしたが、数年前、日本を代表する電子機器会社は、この従来の生産方式を根底から改め全く違った、セル方式と呼ばれる方法に全面的な変更を敢行し、大幅なコスト削減と品質向上を実現しました。

3.現地化と標準化

国際ビジネスに係わる課題として「現地化と標準化」に関する論争があります。「現地化」とはマーケティングに際し、特定のマーケット(地域や国)を主眼に置き、需要家のニーズを充分満たすようにきめ細かい配慮を製品設計に反映させるものです。他方「標準化」とは、世界全体を一つの市場と見なし標準的な設計製品を各地で販売する考えです。前者は、顧客のニーズに応えることができるので売れ行きが期待できますが、地域によって設計変更(色も含めて)が必要でコストが高くなります。他方「標準化」はいちいち地域や国民の好みを反映した製品でなく画一的な製品をどこでも販売する発想ですから、地域によっては売れ行きが低調でしょう。しかし、同一設計品を大量生産できますのでコストは低く抑えられます。さてこれは、製品多様化と価格低減化のいずれが国際ビジネスでは望ましいか、という二律背反の問題として長いこと学者の論争の的でした。
ところが、この問題を解決したのが日本の企業なのです。日本人は製品の多様化と低価格の、それまで矛盾すると考えられていた2つの事柄を2つとも同時に達成したのです。達成した方法は上記の「生産・工程革新」手法だったのです。


4)日本的会社経営

1980年代に大躍進した日本経済に世界は驚き様々な研究が行われました。日本発展の鍵の一つとして広く喧伝され信じられた仮説は、日本独特の会社経営方法でした。これを一口でいえば、会社は家庭、社員は家族、皆で頑張ろう、ということに要約できるでしょう。では、具体的にいえばどうなのか、次の表で項目を立て日米を比較して説明いたします。
    
会社経営の考え方の違い (1990年頃まで)
 
アメリカ
日 本(従来)
企業の中心目的
株主利益の増大
会社共同体の繁栄
優先順位
株主、経営者、従業員
従業員、経営者、株主
経営者の関心事
株価、短期の利益株主資本利益率(ROE)の重視、配当重視 競争力、雇用確保、配当は重視しない、株式持合いによる安定株主対策
経営の視点
短期の収益任期の前半で実績を上げなければ解任される。 長期の収益株式持合いのため安定的な会社関係を重視
経営戦略の視点
企業買収・吸収により短期間で利益をあげる。 事業革新、技術革新、工程合理化、コスト削減
企業と従業員
レイ・オフが一般的、対立的労使関係、企業への忠誠心は低い、転職はあたりまえ―労働力移動社会 終身雇用性、労使協調、高い企業への忠誠心、労働力固定社会 → 21世紀始めに大幅な変革
管理方式
トップ・ダウン型QC活動など育たない。 従業員参加型、QCや自主活動が育つ
組織の特質
個人重視、創造性と多様性重視 全体で決める、均一性・根回し重視、会議で決める
採用
随時
原則として定期採用同日入社
経営者(取締役)
社外取締役重視
殆ど社員から登用
労働組合
産業別組合あるいは職能別組合 企業別組合が全国連合組織を構成

バブル経済が崩壊した1990年以降、日本側で激変が進行しています。従って、上記の表は1980年代を頂点とした日本経済躍進の様子を述べたものとして理解する必要があります。

ここで改めて強調すべき日本的経営の顕著な特徴は、

1.終身雇用・年功序列制度

新卒者を定期採用し定年まで会社業績の良し悪しにかかわらずに雇用関係を維持し、年齢に応じて毎年定期的に給料を上げ役職も一定年齢に達すれば昇格させる制度。
このおかげで従業員は職を失う心配がなく、会社の恩義に報いる強い忠誠心をもちました。他方、長年カネをつぎ込んで教育訓練した従業員が辞職する心配も少なく、会社は技術・技能の伝達・継続を維持できました。

2.企業内労働組合-労使協調

「イロハ電機製造株式会社労働組合」という具合に、会社の従業員だけで当該労働組合を組織する欧米には存在しない組合組織です。会社あっての労働組合ですから、会社が潰れたら全て終わりです。労使が協調して会社をもりたてていく土壌が確固としてありました。

3.会社への強い忠誠心

欧米の会社の技術系の人と付き合うとすぐ分かりますが、日本から持参した最新技術の英文説明書を参考資料として差し出すと、彼は自分の資料ファイルに綴じ込み引き出しにしまいこみます。自分だけの専門知識として保持したがり、それを会社の関連部門の技師や部下ににコピーして渡すなどつゆも考えないのです。転職社会である欧米のサラリー・マン、ウーマンは自己の知識能力向上が最優先でその発揮の場として会社で働きます。よりよい条件の仕事があれば簡単に会社をやめます。平均すると一つの会社に3〜4年勤務というところでしょうか。
日本人は、大企業のサラリーマンの場合これと全く違います。定年退職まで40年近く同じ会社に勤め「会社人間」として公私にわたり会社にドップリ漬かって人生を送ります。こうして多くの人々は自然に会社に対して強い忠誠心をもったのです。


5)日本株式会社―政府と企業の連合体


戦後の奇跡といわれた日本の経済復興と繁栄は、「日本株式会社」がもたらした成果である、とかってよくいわれました。
日本株式会社とは、政府主導のもと官民が一体となって推し進めた産業施策を意味し、日本という国家が「株式会社」として活動したような印象を外国に与えました。     
金融業界は大蔵省(現在、財務省)の主導のもと「護送船団」が組まれ銀行は国家の手厚い保護管理のもと、産業界に潤沢な設備投資資金を供給しました。通商産業省(現在、経済産業省)は、主として製造業の再編成、発展の旗振り役を演じ貿易摩擦に際して日本産業界を取りまとめて問題解決にあたりました。日本が発展するにつれ、集中豪雨的な日本の輸出に危機感を感じたアメリカと戦後何度も貿易摩擦が生じ、そのつど政府間協議で業界を取りまとめ輸出自主規制、現地生産などの対策が実行されました。アメリカとの貿易摩擦は、1950年代の繊維製品に始まり、鉄鋼、工作機械、カラー・テレビ、自動車、そして1990年代の半導体と続きそのつど日本はアメリカの要求に妥協しました。       
この官民一体の産業施策は1980年代の大発展に大きな結果をもたらしたことは事実で一定の歴史的役割を果たしましたが、「護送船団方式」による銀行保護政策は、その後の不良債権問題の元凶となったと現在では厳しく批判されています。


6)高い貯蓄率と間接金融が可能にした高度成長


経済成長は投資を前提とします。工場建設には社会的インフラ(社会基盤整備―道路、電力、上下水道、産業廃棄物処理、通信基盤、港湾、空港、橋、鉄道、高速道路など)の整備拡充が先行されねばなりません。
政府は世界銀行などの国際制度金融機関から莫大な借金をして財政投融資を行い、他方民間企業は銀行から膨大な借金をして(間接金融という)設備投資を行いました。戦後間もない時期だけに資本蓄積が乏しく、直接投資条件(株や社債発行)も充分に発達していなかった金融市場で、企業は銀行から資金を借りることになったのです。銀行貸付の原資は、日本人の高い貯蓄でした。当時の所得倍増計画のもと実質給料が毎年大きく増え、国民は可処分所得の15〜20%を貯金に回しました。当時アメリカの貯蓄率は5%制度で日本人は精一杯貯蓄に励んだのです。このカネが設備投資資金として銀行から企業に貸し出されたのです。貯蓄余裕がなかったら日本の経済成長は相当低いものに終わったことでしょう。


7)自由な競争と独占禁止法


経済の発展には自由、公正な企業活動が不可欠です。このために昭和22年(1947年)制定された独占禁止法は、政府から独立した公正取引委員会の運営のもと、日本経済の自由、公正な発達を確保すべく努力してきました。日本は先進諸外国に比べて極めて競争が激しい特徴をもっています。乗用車製造会社は8社もあり、テレビ・AV機器では10社以上がひしめき合っています。しかし、自由な競争は経済発展の基礎です。競争の中から新技術が生まれ、コスト低減方策が実現されていきます。わが国のかっての驚異的な経済成長は自由な競争がもたらしたものでもあります。


A4:終わりに


1990年のバブル経済崩壊後、かって世界を驚かした「日本式経営」の意義は薄れ、日本人経営者にも過去のやり方を大幅に変革したり、従来の経営手法を止めようとする動きがあり、それは時代の潮流となってきました。平成不況に際し、政府は11回の景気対策を実行し、合計で130兆円に達する資金が景気浮揚に使われましたが、ほとんど効果はありませんでした。急速に成し遂げられた圧倒的な経済成長は、わが国社会にゆがみを残し、傷を作りそれが化膿して膿を出している状態がここ10年続いたのです。小泉内閣は、もはや小手先の治療ではどうにもならない状況を認識し、日本の組織、構造を大幅に変革しなければ再建はおぼつかないと判断、「構造改革」の大手術に乗り出し、先ず、税金浪費集団である特殊法人にメスを入れ、さらに株式会社の合理性で政府管掌事業を経営するように郵政事業民営化に邁進しています。
    
明治維新後私達の父祖が営々として築き上げた近代国家は敗戦により全壊したたかと思われましたが、ところがドッコイ、日本人は実に素晴らしい。灰燼の中からモクモクと立ち上がり30年後にはアメリカが悲鳴をあげるほどに国力を回復したのです。平成不況は出口が見えてきました。日本がまた世界の諸国から手本と見なされる時代は近いうちにやってくることでしょう。

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