特集
戦前の民主主義について


渡辺龍二(自由主義史観研究会会員)

Q1:日本の民主主義は戦後に占領軍がもたらしたものですか?

第二次大戦前の日本は独裁国家であり、戦後に初めて米軍が民主主義を教えたように考えている人がいますが、それは間違いです。

昨年の平成15年11月9日におこなわれた衆議院選挙は、第43回総選挙です。第1回総選挙は、帝国憲法が発布(明治22年2月11日発布、同23年11月29日施行)された年の、明治23年(1890年)7月 1日 におこなわれました。この衆議院選挙の結果、反政府系の立憲自由党が140名の多数を占めました。

民主主義は、選挙と議会と複数の政党によって保障されます。それがなければ、人民民主主義とか本当の民主主義だとか言っても言葉だけにすぎません。選挙と議会と複数の政党があることによって、時の政府の政策や思想に反対の立場の人も国民の支持があれば国政を左右できたり、または政権交代の可能性もでてくるのです。19世紀のこの当時にそれがあったのは、日本と欧米のごく少数の国だけでした。

例えば現代の中国は、経済の自由化が進むに従って市町村のレベルでは自由な選挙の方向に向かっていますが、国政レベルでは政権交代の可能性のある選挙や議会や複数政党はありません。また韓国で選挙で大統領が選ばれたのは1987年の盧泰愚政権以降ですし、選挙によって地方議会が成立したのは1991年からです。もちろん、日本はアジアで最初の議会をもつ立憲国家でした。(公文書としての憲法だけならトルコの「ミドハト憲法」と呼ばれるものが、1876年12月23日から1年間ほどあり、これがアジアで最初の憲法です。)

明治期の内閣は「富国強兵」「殖産興業」を方針とし、議会側の多数は「民力休養」「経費節減」を主張しました。日清戦争や日露戦争があり、その間は両者の対立はありませんでしたが、政府は議会の乗り切りが重要でした。明治憲法では外交と国防は議会の権限の外とされました。しかし議会の本会議や予算委員会の質では、広く国政一般にわたって質疑することが先例として認められていて、政府や大臣を批判したり責任を追求できました。

そして政府が批判に答えられなければ、議会の同意なしには予算や法律は成立しません。こうして政党は明治憲法の運用を通して政治的影響を次第に増大させていきました。もちろん軍事予算も議会の承認がなければ成立しませんし、国防体制を作るにも議会を通した国民の支持が不可欠でした。例えば、明治26年(1893年)には自由党と立憲改進党が予算案に反対し、政府と正面から対立しました。伊藤首相は解散をしても議会で多数を得られる見とおしがなかったので、天皇に調停を依頼しました。その結果、宮廷費の6年間の減額と官吏の俸給の一割納付によって、戦艦2隻の建造費に補充することで政府と議会が妥協し予算がとおりました。

この頃の選挙権は一定以上の納税額を有する成年男子に限られていました。その後に納税額の制限は下げられていき、大正14年(1925年)には普選法が成立しました。これによって男子の納税資格がなくなり、25歳以上の総ての男子には被選挙権が、30歳以上の男子には被選挙権が与えられました。これによって有権者の数は4倍になりました。また同時に小選挙区制度から中選挙区制度に変わりました。

しかし、婦人の参政権は含まれてないので、今からみると非民主的に思えるかも知れません。ただ、日本は遅れていたわけではありません。議会政治の一番の先進国の英国でも、非納税者に選挙権が与えられたのは、1918年であり、日本の7年前にすぎません。男子に限られていたとはいえ、もちろん日本のこの普通選挙はアジアで最初です。

英国で男女平等の選挙権が成立するのは1928年です。アメリカでは、女性の参政権は早くも1920年に承認されましたが、黒人の政治参加を排除するための選挙人資格としての人頭税が南部諸州から撤廃されたのは1960年です。日本や西欧諸国(例えばフランスでは1945年)でも、たいてい第二次世界大戦終結前後に婦人参政権が認められました。スイスで、婦人参政権が認められたのは1971年のことです。


Q2:戦前の日本は二大政党制だったというのは本当ですか?

大正から昭和初期には、二大政党の政党政治が定着し政党内閣が続きました。

大正元年の第3次桂内閣は、政友会と国民党から攻撃を受けて辞職しました。桂太郎首相は日露戦争に勝利した時の首相で政界の大物でしたが、この時はただ世論と言論の力のみによって辞職せざるを得なくなったのです。大正から昭和初期には、政党の分裂や離合集散があったので固定的な二大政党制ではありませんでしたが、政友会(立憲政友会)と憲政会の二大政党の政党政治が定着し、大正7年(1918年)の原敬の政友会内閣以後は本格的な政党内閣がつづきました。そして衆議院の第一党が政権を担うような慣例ができてきました。

政党内部での派閥や政党が政権をとるための宣伝や攻撃は、現在の自民党や民主党と同じですし、選挙の構図も、選挙区や地盤、看板、演説、後援会、金権選挙、ボランテイアによる応援・・・など、基本的には現在とかわりません。当時の国会議員のなかには、普通選挙になってからは候補者の妻も壇上で有権者に頭を下げなければならない時代になったが、自分の妻は若くも美人でもないので困ったものだと嘆く議員もいました。

その当時の歴代の首相の所属政党を列挙します。(首相が政党に所属していなくても政党が与党になっていることが多くあります。)

・大隈重信   大 03.04.16〜 立憲同志会 (後に憲政会になる)
・寺内正毅   大 05.10.09〜 陸軍
・原   敬   大 07.09.29〜 政友会
・高橋是清   大 10.11.13〜 政友会
・加藤友三郎 大 11.06.12〜 海軍
・山本権兵衛 大 12.09.02〜 海軍
・清浦奎吾   大 13.01.07〜 貴族院
・加藤高明   大 13.06.11〜 憲政会
・若槻礼次郎 大 15.01.30〜 憲政会
・田中義一   昭 02.04.20〜 政友会
・浜口雄幸   昭 04.07.02〜 立憲民政党 (憲政会が政友本党と合併)
・若槻礼次郎 昭 06.04.14〜 政友会
・犬養 毅   昭 06.12.13〜 政友会

この政友会の犬養首相の時に5・15事件がおこり首相は暗殺されました。昭和11年に2・26事件がおこり、以後は非政党内閣が続きます。しかし、これ以後は議会が軍部に完全に抑えつけられたということではありません。衆議院の議会でも下記に引用するような浜田議員の発言や、2・26事件を受けて軍人が政治に関与することを非難する粛軍演説などもありました。

昭和12年1月21日の衆議院で、政友会の浜田国松代議員と陸軍大臣の寺内寿一の間で次のような答弁があり議会が紛糾しました。 まず浜田議員の軍部批判があり、それにたいして寺内大将が抗議しました。

陸軍大臣寺内寿一 「浜田君のお言葉はいささか軍人を侮辱さるる感じがする」

浜田代議士 「私は九千万の国民を背後にしている公職者である。あなたから忠告を受けねばならぬことがあるなら、私は割腹して天下に謝さねばならぬ。速記録を調べて僕が軍隊を侮辱した言葉があったら割腹して君に謝す。なかったら君、割腹せよ!」

しかし、当時の議会は世論の動向を受けて日中戦争遂行に協力的で積極的で軍部の尻をたたいた面もあります。また政府よりも議会の方が、中国との和平条件にきびしく英米に対して強硬でした。昭和13年の国家総動員法によって議会はほぼその機能を失いますが、これも軍からの圧力や強制があったわけではありません。国会議員にとってはマスコミや世論の動向が大きかったと思われます


Q3:大政翼賛会は独裁政治だったのですか?

日本は、ドイツやソ連や中国のような独裁体制ではありませんでした。

昭和12年7月に始まった日中戦争が長引き太平洋戦争が始まって、日本も総力戦の体制になっていきましたが、日本はドイツやソ連や中国のような独裁体制ではありませんでした。独裁とは一国一党体制で大統領や首相(総統や書記長)に任期がないことです。

昭和15年12月に大政翼賛会ができましたが、これは当時のナチスや共産党のような一国一党の独裁政党ではなく、実体はいくつかの勢力の寄り合い所帯であり内部紛争が絶えませんでした。そのため大政翼賛会は行政の補助機関のようになり、昭和16年の9月に翼賛議員同盟が創設され、衆議院議員はこの他にも同交会、興亜議員同盟、議員クラブ、同人グラブ、無所属などに分れました

昭和16年に太平洋戦争が始まり、戦争中の昭和17年2月に東条首相は翼賛政治体制協議会を結成し、4月の第21回総選挙では衆議院の立候補者を推薦するいわゆる翼賛選挙を行ないました。しかし、衆議院選挙の結果は推薦議員は381名で非推薦議員は85名でした。中野正剛、鳩山一郎、三木武吉、芦田均、笹川良一などの非推薦組の議員達は程度の違いはあっても、反東条派でした。

この太平洋戦争中の衆議院選挙で推薦議員が多く当選したのは、有権者がこの非常時には政府に一致協力すべきだという考えがあったからだと思います。しかし、この時でも非推薦の候補者も当選できたのです。例えば、尾崎行雄は推薦選挙に反対して東条内閣に公開状を送りその中止をもとめたり演説をおこなったりしましたが、当選しています。また斎藤隆夫は、昭和15年に衆議院で軍と政府を批判する演説をして衆議院議員を除名されていましたが、但馬選挙区で最高点で復活当選しています。

その斎藤の除名の原因となった演説は、下記のように一部を抜き出しただけではわかりにくいかもしれませんが、単なる反戦演説ではなく、リアリズムの政策と弱肉強食の国際社会の現実に基づいた演説でした。斎藤議員に対する除名決議に対して、3分の1の議員が棄権し、反対票を投じた議員は7名いました

「…一体支那事変はどうなるものであるか、何時済むのであるか、何時まで続くものであるか。政府は支那事変を処理すると声明して居るが、如何に之を処理せんとするのであるか・・・・聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、斯くの如き雲を掴むような文字を並べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことがありましたならば、現在の政治家は死しても其の罪を滅ぼすことは出来ない。…」

衆議院選挙後の5月に東条首相は翼賛政治会を作りほとんどの議員が参加しました。これには議員倶楽部や興亜議員同盟、翼賛議員同盟、同友会、東方会なども加盟したので、一国一党のように見えましたが、反東条の議員もいたし政友会と民生党の勢力争いや政党出身議員と非政党出身議員の争いなどがあり、一本にまとまっているとはいえませんでした。

東条首相は陸軍大臣の他に参謀総長も兼任し、その他、外務、文部、商工、軍需の大臣も兼務したりしました。また軍人が首相に就任するときは退役することになっていたのに特例で現役のまま首相になりました。日本の歴史で最も独裁的な力を持った首相でした。しかし、その東条首相も独裁者ではなく海軍の作戦には口出しできませんでしたし、昭和19年にサイパン島が占領されるとその責任をとって退陣せざるを得なくなります。

近代戦争は経済力を含めた総力戦であり、戦争に勝つためには戦時中は総力戦に適した国家体制にならざるを得ません。また、いったん国運をかけた戦争が始まったなら、国民や議員達もそれに協力するのはある意味では当然の義務です。それは米国でも同じであり、戦時体制は日本よりも米国の方が効率が良く、この意味では日本よりも軍国主義的といえるかもしれません。また、ルーズベルト大統領は、東条首相より強い権限を持ちそれを行使していました。

しかし、米国の大統領を独裁者と呼ばないのは、選挙で選ばれて任期があったからです。ヒトラーも選挙と国民投票により権力を握り「首相兼総統」になりましたが、任期はなく批判できる人もいませんでした。スターリンも毛沢東も蒋介石も、その地位に任期はなく終身であり、平和的手段で批判できたり交代を求めたりはできません。敗戦前の日本のように、国家の敗北が近くなると相当に無理なことが行なわれがちです。しかし、当時の日本がドイツやソ連や中国のような独裁国家であったとはいえません。

また尾崎行雄や斎藤隆夫が今日、評価されるのは、時流に流されない信念と本当の勇気をもっていたということと、日本が戦争に負けたという結果の影響もあると思われます。しかし、迎合したのではなく、全力を尽くしてかつ信念を持って日本の勝利を第一に考えて協力した議員もいました。彼らすべてを結果論による後知恵でむやみに批判してはいけないと思います。

『日本とは、どのような国ですか』の目次へ   特集の目次へ