特集
「侵略」か「圧制からの解放」か
日本のアジア進出


杉本幹夫(自由主義史観研究会理事)

★この記事は三沢基地内・メリーランド大学における講義をテキスト化したものです。

今日はアメリカの方に話す機会を与えて頂き、まことに嬉しく、光栄に思っています。私がこれから話すことは、一般の歴史書の見解と大変違っています。どちらが正しいか、皆様自身が自分で調べ、自分で考えてください。

4月中旬竹島問題と歴史教科書問題に端を発し、韓国で大変な反日でもが行われました。これが中国へ波及し、死傷者こそ出ませんでしたが、大使館・公使館の窓ガラスが木っ端微塵に壊される等、暴力的なデモに発展しました。彼らの主張は「日本の侵略により、多大の損害を受けた」「足を踏みつけられた人の痛みは、踏みつけた人には分からない」と言う物です。本当に痛かったのでしょうか。かえって幸せになったのではないでしょうか。

私は今から10年余り前、細川首相が韓国を訪問し、謝罪発言をしました。何故謝らなければならないのか、私には非常に不思議に思いました。疑問は2つ「同じような統治をした台湾の人は大変親日的である。韓国とどこが違ったのだろうか」「日本が統治した台湾・朝鮮は先進国の仲間入りしている。それに対し欧米諸国が統治した国は殆ど低開発国のままである。何が違ったのだろうか」と言う事です。

その事を自分で調べて見ようと思い、大学院を受験したところ「毛色の変わったやつが来た」と入学を認めていただき、60歳の学生となりました。そして修士論文として「データから見た、日本統治下の台湾・朝鮮プラスフィリピン」を書き、大学を止めた時「植民地朝鮮の研究、謝罪するいわれは何もない」を出版しました。そして昨年仲間と共に、このパンフレット「民団の皆様、真実の歴史を学んでください」を出版しました。


植民地について


そこで痛感したのは「植民地になった事は本当に不幸な事だったのか」と言う事です。毛沢東に支配された中国の国民は、同じ民族に支配されたから幸せだったでしょうか。金日成に支配された北朝鮮国民は、同じ民族に支配されたから幸せだったでしょうか。植民地にされたから不幸になったと言うのは単なる幻想に過ぎません。

「植民地は宗主国に搾取される」は「労働者は資本家に搾取される」と同じパターンであり、マルキシズムの理論です。マルキシズムはソ連の崩壊により、誤った理論であることが立証されました。「植民地になった事により不幸になったか、どうか」は、各々の場合について検証して見なければ分からないことなのです。


太平洋戦争について


話が変わりますが、第2次世界大戦にアメリカが参戦した最大の目的は何だったのでしょうか。中国との貿易の拡大ではなかったのではないでしょうか。その目的は達したでしょうか。目的を達成するどころか、逆に中国からシャットアウトされたのではないでしょうか。

1940年から43年までアメリカ陸軍参謀本部に勤務し、1944年10月より中国戦線アメリカ軍司令官を務めたウェデマイヤー将軍の「ウェデマイヤー回想録(Wedemeyer Reports)」は、日本では「第2次世界大戦に勝者なし」の名前で、翻訳出版されています。

一方日本は戦争目的の一つとして、人種差別の撤廃をあげています。インドネシア、ビルマ等で、日本は現地軍を養成しました。敗戦になると一部の武器・弾薬は、命令に違反して現地軍に引き渡されました。同時に一部の日本兵は脱走し、現地軍に加わり、共に独立戦争を戦ったのです。そして独立を勝ち取ったのです。

このビルマ・インドネシアの独立は、アフリカ諸国の独立運動、アメリカの黒人解放運動に波及しました。今では国連事務総長やアメリカの国務長官も黒人となり、人種差別はなくなりました。日本が主張した人種差別が実現したのです。


コミンテルンの謀略


ではどうしてこのような事になったのでしょうか。1935年7月第7回コミンテルン(国際共産党)大会で決定されたことは「日本と蒋介石政権を徹底的に戦わせよ。そしてその戦争に米英を引きずり込め。そして日本が荒らしまわった跡と、疲弊した日本をそっくり共産陣営に頂くのだ」と言う事です。

この事が分かると、盧溝橋の一発が何故シナ事変に発展し、太平洋戦争に発展したかが良く分かります。盧溝橋の一発と言っても分からない人が多いと思います。

1898年北京で義和団という一種の宗教団体が外国勢力の排斥運動を始めました。次第に暴力化し、家屋の破壊、殺人にまで進みました。ドイツ公使、日本人外交官が殺されました。1900年遂に連合国と清国の戦争に発展しました。その後の交渉で各国は自国民保護の為、軍隊を駐留することになったのです。

そのようにして北京に駐在していた日本軍は1937年北京の近くの盧溝橋で演習していました。演習が終わり休憩しているとき、何処からとも分からない銃弾が打ち込まれたのです。この攻撃は数次に及びました。この結果日本は中国軍を攻撃しましたが、これは中国正規軍による発砲ではなかったのです。

停戦協定が何回も成立しますが、ことごとく誰とも分からない発砲事件により、再度戦闘状態に戻りました。これはすべて中国正規軍に潜り込んだ共産党員によるものであることが明らかになっています。


日本に築かれたスパイ網


1941年10月日本ではゾルゲ事件が発覚しました。ゾルゲとはソ連のスパイです。近衛総理の有力なブレーンであった尾崎秀実(ほつみ)がゾルゲと共に、スパイとして逮捕されたのです。彼は朝日新聞の記者として、昭和研究会に参加し、シナ問題研究部会等の責任者となり、この会の指導的地位にありました。又近衛内閣の最高ブレーンである「朝飯会」の中心メンバーだったのです。従って日本の最高機密はソ連に筒抜けであると共に、日本の意思決定に大きな影響を与えたのです。有名な「蒋介石政権を相手にせず」との声明の発案者は尾崎であった可能性が高いと言われています。


アメリカに築かれたスパイ網


アメリカでは戦後米ソの対立が始まり、共産党員弾劾のマッカーシー旋風が吹き荒れました。そこで多くの人が弾劾されましたが、その中にはアルジャー・ヒス、ハリー・デクスター・ホワイト、ロークリン・カリー等がいます。

アルジャー・ヒスは戦後の枠組みを決めたヤルタ会談に、ルーズベルト大統領の顧問として参加しています。
ハリー・デクスター・ホワイトは実質的な対日宣戦布告といわれる、ハル・ノートの原案を作った人と言われています。その原文は、何とソ連の諜報員、ピタリー・パブロフより渡されたとの事です。
又ロークリン・カリーはアジア問題担当大統領特別補佐官でした。

そして彼らに情報を送ったのは、エドカー・スノー、ティルマン・ダーディン、アグネス・スメドレー、タイム誌の創立者で経営者ヘンリー・ルース等です。彼らはすべて共産主義にかぶれていました。又南京虐殺事件を報じたティンパリーは国民党宣伝部の顧問であり、ベイツも国民党政府顧問でした。

要するにルーズベルトの下に入れられた情報はすべて共産党側からのものであり、意思決定にもソ連の意思が強く働いていたのです。
先ほど話したウェデマイヤー将軍はアメリカの得た情報が如何にバイアスのかかったものであり、上層部が彼らの意見を信じきっていたことを嘆いています。
戦後日本・朝鮮で共産党員を釈放したことが如何に社会混乱を招いたか、僅か数年で再び、共産党員の追放せざるを得なくなった事など、アメリカが如何に共産党の恐ろしさに無警戒だった事が分かります。


中国のテロ行為


中国でテロ行為が頻発するようになったのは第一次世界大戦が終わった、1919年以降です。この年ウィルソン大統領の民族自決宣言により、世界各国で一気に民族主義が起こりました。先ほども言いましたが、「植民地は宗主国に搾取される」は「労働者は資本家に搾取される」と同じパターンであり、共産主義の理論です。

右翼と左翼は正反対の主張のようですが、民族主義、計画経済という点では共通です。だからゾルゲ事件の尾崎秀実が近衛首相に食い込み、日本の政策決定に大きな発言権を持てたのです。又この頃は世界的な不況で貧富の差が開いていました。日本でも、アメリカでも共産主義にシンパシーを感じる人が多数いました。ルーズベルトも、近衛首相もこれらの人の一人です。

中国における民族主義の刃は、日本と共に欧米諸国にも向けられました。各地でテロ行為が激発しました。今年の4月末、中国で激しいデモが行われましたが、あのようなやさしいものではありません。各地でイギリス人、日本人が殺されました。当時の中国は動乱の時代で、しっかりした政府が無く、このようなデモを取り締まる力がありませんでした。

1927年には南京事件が発生しました。1937年に発生した南京事件とは別の事件です。デモ隊が南京を占領し、多くの外国人が殺されました。それに対抗し、イギリス、アメリカの軍艦が2時間にわたり砲撃しました。しかし日本は無抵抗主義に徹し、唯々融和を呼びかけるだけでした。当時の外務大臣は幣原という人でした。この外交政策は幣原軟弱外交と言われました。

この結果に不満をもったのが日本の陸軍でした。1928年国共合作に成功した蒋介石は北伐を始めました。この頃は田中内閣に替わり、外相は田中義一が兼務していました。彼は天津周辺の日本人保護の為、出兵しました。そこで北上中の蒋介石軍と衝突しました。済南事件です。その後のデモ隊の標的は日本に集中し、イギリス人、アメリカ人に対するテロ行為は減少したのです。


満州事変の勃発


1931年、朝鮮人農民と中国人農民の衝突である万宝山事件と中村大尉殺人事件が相次いで起こりました。当時の外務大臣は幣原でした。幣原では根本解決は難しいと考えた日本の現地軍は、満州鉄道の鉄橋に爆薬をしかけ、爆発させました。それを中国人の仕業だといって満州事変を引き起こしたのです。

元々満州は満州族と蒙古族の地であり、漢民族は殆ど住んでいなかったのです。17世紀に満州族の王様が、シナを征服して開いたのが清王朝です。日本は清王朝のラストエンペラーを連れてきて、満州国を作りました。日本は鞍山製鉄所を中心に重工業を育成しました。鉄道・道路・発電所・送配電設備等のインフラを整備しました。それを見て中国本土から毎年100万人移民してきました。誰が地獄のような所に移民してきますか。満州は彼らにとって天国だったのです。


日中戦争はテロとの戦い


しかし中国本土では引き続き、日本人に対するテロ行為が続きました。そのテロ行為を煽っていたのが共産党でした。日本が蒋介石の国民党政府を承認したのは1929年でした。その後共産党と国民党の内戦が続きましたが、1936年末和解が成立し、1937年シナ事変が始まったのです。

中国は日本の侵略により多大の苦痛を受けたと主張していますが、日本人が中国に進出したのは、現在と同じく経済的なビジネスチャンスを求めて進出したのです。それに反対して、先日のデモのようなことが行われ、何人も殺されたが、政府は何にも対策を講じなかった。
その被害者がアメリカ人だったら、あなた方は仕方がないと容認しますか。そして次第に戦争に引き込まれたのがシナ事変でした。丁度現在のイスラエルとパレスチナの戦争と同じです。


靖国問題


次に靖国問題について述べます。日本が負けた後、各地で戦争犯罪について裁判が行われました。多くの人が有罪になりました。或る人は死刑になり、或る人は懲役刑に処せられました。我々から見るとその裁判はずさんなものであり、復讐裁判でした。しかし我々はサンフランシスコ講和条約でその裁判の結果を受け入れざるを得ませんでした。その事を書いたのが11条でして、講和条約成立後も決まった刑を誠実に執行することになったのです。しかしその第2項としてその裁判を行った国の過半数の同意を得た場合は赦免できることになっています。

1953年八月「戦犯赦免に関する決議案」が圧倒的多数により、衆議院の本会議で決議されたことにより、日本政府は関係各国に赦免を働きかけ、A級戦犯は1956年三月末までに、B・C級戦犯は1958年五月末までに全員赦免、釈放されたのです。尚A級戦犯とは、開戦時の首脳クラスであり、平和に対する罪として起訴された人たちです。

ドイツは開戦責任をヒトラーとナチスに押し付け、国民は責任が無いかのごとく主張しています。ヒトラーを選んだのは誰だったのでしょうか。日本はそんな卑怯な民族ではありません。又日本は戦前も民主国です。独裁国家のごとく言われていますが、東条首相でも政権をとったのは僅か3年であり、形勢が悪くなると解任されています。独裁者などいなかったのです。だから開戦責任は彼らだけにあるのではなく、国民全体が負うべきだと考えたのです。

中国はサンフランシスコ講和条約で東京裁判を認めたのだから、彼らの罪を認め、靖国神社に合祀することは認めないと言っていますが、その第2項で彼らは既に赦免されているのです。その結果、A級戦犯の内、懲役7年の実刑判決を受けた重光葵は外務大臣に、終身刑に処せられた賀屋興宣は法務大臣に就任できたのです。どの国からも文句は出ませんでした。

この免責は当然中国の了解なしには不可能です。但し、当時中国を代表していたのは共産党政権ではなく、国民党政権です。国際常識として、革命等で政権が変った時、後継政権は前政権が結んだ国際条約を引き継ぎます。ソ連が崩壊した後、ロシアがソ連の結んだ国際条約を引き継いでいる事がその例であす。若し国民党政権が結んだ条約や約束は知らないと言うなら、台湾を中国の一部だと主張する資格はありません。中共政権は一度も台湾を支配したことがなく、全く別の国です。同じ国だと主張する以上、国民党政権が結んだ条約や約束は、引き継ぐ義務を有します。

靖国問題が発生したのは1985年以降です。その前には毛沢東は「日本軍は中国に大きな利益をもたらしたのだから、申し訳なく思うことは無い」と言っています。又ケ小平は「日本は中国を助けた事になっている。日本人だけを責めるのは不公平だと思う」と語っているのです。即ち彼らは日本が蒋介石政権を叩いてくれたお陰で政権を取れたと、お礼を言っているのです。

「歴史を鑑にする」事は大賛成です。しかしその為には真実の歴史を学ぶ必要があると思います。


戦後補償について


サンフランシスコ講和条約の話が出たので、これに関連してドイツとの比較を述べます。

よくドイツはしっかり近隣諸国に謝罪しているが日本はしていないと非難されています。しかし本当は逆なのです。日本はサンフランシスコ講和条約の後、フィリピン、ビルマ、インドネシア、オランダ等、サンフランシスコ講和条約に不満を持つ諸国と次々に平和条約、追加賠償交渉をまとめています。平和条約を締結していないのはロシアくらいでしょう。それに対し、ドイツは東西に分裂していたため、殆ど講和条約を締結していません。締結したのはユダヤ人に対する補償と、数年前に締結された戦時捕虜に対する個人補償くらいではないでしょうか。

このドイツの戦時捕虜に対する個人補償を受けて、日本でも戦時捕虜に対する個人補償 をすべきだとの言う議論が沸き起こりました。所が日本はサンフランシスコ講和条約16条で個人補償は済んでいるのです。この条項では連合国・中立国に持っていた日本政府のみならず個人資産もすべて没収し、国際赤十字にて売却して、戦時捕虜に対する個人補償として分配することになったのです。その金額は私の初任給の約3か月分でした。又貨幣価値を考えると、ドイツが行った戦時捕虜に対する個人補償とほぼ同程度でした。

尚イギリスは、イギリスが接収した日本資産の売却益を加え、ほぼ2倍の金額を個人補償しています。又アメリカは国際赤十字による個人補償を返上し、アメリカ国内にあった日本資産の売却益で、捕虜になった期間、1人1日1ドル支給しています。中国は膨大な資産を接収していますが、当時中国を代表していたのは台湾政府ですので、個人補償はしていないと思います。又そのため、フィリピンやインドネシアの様な賠償を受けていません。しかし新生中国の政府として承認して貰うためには、前政権の結んだ条約は引き継がざるを得ません。それでは気の毒と思った日本政府はODA資金を供与し始めたのです。
2003年現在で累計無償供与1500億円、借款3兆円に及んでいます。


日本の韓国併合は圧政からの解放とロシアからの防衛


そこでようやく依頼された朝鮮問題に入ります。韓国では閔妃殺害事件が、「日本の植民地支配に抵抗した王妃が不当に殺害された悲劇」としてミュージカルのヒロインになりました。私の所に寄せられたメールでもこの事件を非難するものが多数あります。しかしこの王妃こそが、朝鮮滅亡を招いた人です。彼女はか弱い女性ではありません。国王の実父大院君との権力争いに勝ち、まさに現代の金正日に匹敵する専制君主でした。彼女は官職をお金で売り、自分贅沢に使いました。官職を買った役人は元金回収のため、人民を搾取し、あらゆる不正を働いたのです。従って彼女は多くの人の恨みを買っていました。

彼女は朝鮮軍、大院君、日本の3者連合に暗殺されましたが、それはクーデター事件です。それ以前にも2回も朝鮮人による暗殺未遂事件がありました。この事件では日本の三浦公使が召還され、広島地裁で裁判を受けました。しかし朝鮮軍の次官が自首してきたことと、ロシア、アメリカの連合軍によるクーデターが直然に阻止できた事から、証拠不十分で釈放されました。春生門事件と言われます。

朝鮮半島は大陸からの橋です。ここに親日的な安定した政権を作ることが極めて重要です。しかし当時の皇帝・高宗のわがまま、無能から併合せざるを得なくなったのです。日本が最も恐れていたのは、ロシアのリベンジです。ロシアとの戦争になったとき、朝鮮人が日本の味方になれば大変な戦力の増加になります。しかし逆にロシアの味方になったら大変です。だから日本は必死に朝鮮人の生活向上に努力しました。


北朝鮮の国章


独立間もない北朝鮮は1948年始め、国章を制定しました。上図を見てください。この制定 に当たり金日成は「国章には労働階級を核心とする労農同盟に基づく広範な人民大衆の統一団 結と強力な現代的な工業と先進的な農業の発展・展望がはっきりと描かれなければならない」 と述べたとのことです。

出来上がった共和国の国章は、「朝鮮民主主義人民共和国」と記した赤い帯をまいた稲穂の楕円形の枠の中に壮大な水力発電所を配し、その上に革命の聖山である白頭山と、さん然と輝く赤い五角星がある。国章上部の星と光は、共和国が受け継いだ革命伝統と朝鮮人民の明るい未来を象徴している。水力発電所は、強力な重工業を軸とする自立的な近代工業と労働者階級を象徴しており、稲穂は発達した農業と労働者階級の同盟者である農民を象徴している。」としています。

この水力発電こそ、日本が北朝鮮に残した最大の遺産です。当時の北朝鮮にはまだ新規に計画し、着工するだけの力はありません。1929年、当時日本最大の発電所が蟹寺発電所45000KWの時に、鴨緑江の支流赴戦江に13万KWの大発電所を建設しました。その水力発電所を核に朝鮮窒素の肥料工場を作ったのです。それを手始めに水力発電所を核とした重工業化が急速に発展したのです。長津江、虚川江と次々に開発が進みました。1941年鴨緑江の本流に稼動開始した水豊発電所は第1期工事70万KW、全工事完了時200万KWという大発電所です。この発電所に使われた10万KWの発電機は当時世界最大でした。それと共に朝鮮全域に送配電網が建設されたのです。1930年代朝鮮の産業革命といわれる大発展を遂げました。

農業の部門でも農村振興運動と呼ばれる生産性向上運動や、灌漑設備の整備により、面積あたりの収量が急速に増加しました。北朝鮮の東海岸は冷涼な気候と、山が迫っているため、米の栽培には不向きな所です。高粱、稗、粟等の雑穀が主食でした。それがこの時代に米が主食になったのです。北朝鮮が国章に水力発電所と稲穂をメインテーマに選んだことは、日本の政策を如何に評価していたかを示すものです。


朝鮮人に対する差別


1919年3.1独立運動後の朝鮮の復興に当たったのは斉藤実総督です。彼は通算約10年朝鮮総督を務め、後には日本の総理大臣になった人です。

3.1独立運動は日本統治の苛酷さを示すものとして非難されていますが、この事件では一人も死刑になっていないのです。最高刑は僅か懲役3年に過ぎません。彼は徹底的に首謀者である崔麟や李光洙を説得し、親日派に転向させました。尚世情伝えられる犠牲者数は上海に亡命していた朴殷植が人の噂を元にでっち上げたプロパガンダ数値であり、死亡者数は総督府発表の10倍以上です。

彼は又京城帝国大学を作るなど、教育の普及に努めました。又地方自治制度を2回に亘り改訂し、朝鮮人による地方政治に大きく前進させました。

日本は朝鮮人を差別したと言われますが、東京で朴春琴と言う人が衆議院議員に2回も当選しています。東京で衆議院議員に当選するためには日本人の支援が無ければ不可能です。貴族院議員には通算10人も任命されています。陸軍中将まで栄進した洪思翊と言う人もいます。又李王家は皇族として処遇されました。全く差別が無かったとは言いませんが、一般に思われているより、遙かに差別が無かったのです。

その結果、日本人と朝鮮人の一体化が進み、1938年に始まった特別志願兵の募集について、初年度は7.7倍、2年度は20倍に増え、1942年には60倍を超える応募者があったのです。その結果1944年徴兵制度が導入されました。


従軍慰安婦

朝鮮の日本統治については、従軍慰安婦、強制連行等いろいろ非難されていますが、すべてマルキストによる捏造、歪曲です。従軍慰安婦とは性奴隷ではなく、売春婦です。何処の軍隊でもその後を売春婦が追っかけるのは古今東西、世界共通のことです。1992年5月12日の毎日新聞に、ある慰安婦の預金通帳についての記事が載っていました。その通帳によれば、1943年から45年の約2年の間に12回振り込みがあり、その預金残高は26,145円に上っています。年間1万3千円です。当時日本軍の陸軍大将の年俸は6,600円でした。
即ち彼女は陸軍大将の年俸の約2倍貯めこんでいたのです。これが性奴隷ですか。


強制連行


1920年代は世界的な不況の時代でした。この時期朝鮮人の日本への移住は労働市場を乱すとして、厳しく制限されていました。1938年シナ事変が始まった翌年、朝鮮における労働者の募集が自由化されました。一人の求人に対し、希望者が殺到した時代です。

しかし1942年になると朝鮮も人手不足になり、総督府で求人を各道に割り振り、道が市、面に割り振る官斡旋方式になりました。更に1944年にはそれでも人集めが困難になり、徴用制に変わりました。この官斡旋時期の後半が最も問題となる時期です。相当強引な説得が行われたようです。このため強制連行という言葉が生まれました。

しかし拉致のように身体を拘束されて所定の工場や、鉱山に連れて行かれた人はなかったと思います。徴用について法的に強制されたから、強制連行だという人もいます。しかし徴用が強制連行なら、日本人は戦場に強制連行されたことになります。1960年代から70年代にかけベトナム戦争がありました。当時のアメリカは徴兵制でした。アメリカの青年は法的に強制され、ベトナムに行きました。彼らは法的に強制されてベトナムに言ったのだから、ベトナムに強制連行されたのでしょうか。

強制連行という言葉は使う人により定義が皆違います。北朝鮮など840万人強制連行したと言っています。戦争中内地に引っ越した人はすべて強制連行だと言う人もいます。

経済的に引っ越さざるを得なかった人は、時期に関係なくすべて強制連行だという人もいます。強制連行とは、定義の無い、日本を非難するための言葉です。

私は強制連行とは、身体を拘束されて所定の工場や、鉱山に連れて行かれた人と定義すべきだと思っていますので、強制連行はなかったと思っています。


台湾の親日感と韓国の反日感


台湾と韓国は共に日本に統治されました。所が台湾では日本統治を大変評価しています。一方朝鮮は日本の統治を非難しています。何が違ったのでしょうか。それは言論の自由があるか、ないかだけです。台湾は李登輝の登場により、言論の自由が確立しました。その結果海南島との比較で日本の素晴らしさが認識されました。

一方韓国は盧武鉉大統領が日本の武部幹事長に「歴史教育は学問の自由の領域ではなく、政府の責任の領域だ」という国です。親日的な発言をしている金完燮や呉善花は身の危険を感じるといっています。金完燮は家族を海外へ避難させたようですが、本人はしぶとく韓国で頑張っています。呉善花を始め親日的な発言をした人たちは次々に日本に避難してきています。しかし金完燮によれば歴史の真実に気づいた戦後世代が幾何級数的に増えてきているとの事です。


台湾・韓国の発展とフィリピンの停滞


最後に日本に統治された台湾・朝鮮は、共に先進国の仲間入りをしました。それに対し、アメリカに統治されたフィリピンは未だに低開発国に留まっています。何が違ったのでしょうか。因みに台湾が日本領になったのが1895年、韓国併合が1910年、フィリピンがスペインからアメリカに売却されたのが1898年です。共に第2次世界大戦後独立しています。ほぼ同時期、同期間、かたや日本に支配され、かたやアメリカに統治されたのです。

発展の基礎は教育です。1950年の教育普及率は韓国84%、フィリピン81%ですから同程度です。尚台湾は日本の統治が早かっただけ、韓国より上です。日本は台湾・朝鮮の工業化に努力しましたが、フィリピンは工業化が進まなかったようです。べトナム戦争による特需が韓国経済勃興のきっかけとなりましたが、フィリピンはどうだったのでしょうか。

1912年アメリカの政権が共和党から民主党に替わりました。それにより「フィリピン政治は出来るだけフィリピン人の手で」と政策が変わりました。政府の要職もかなりフィリピン人に切替わったのです。それと共にフィリピンに進出していた人が次第に引き上げました。一方台湾・朝鮮では日本との一体化が進みました。この同化政策が韓国台湾の発展に大きく寄与したと思っています。戦後日本が高度成長で人件費が高騰しました。人件費が安く、日本語が通じる韓国・台湾は日本の下請工場として大きく成長したのです。フィリピンがもっとアメリカと一体化しておれば、アメリカの下請工場として、東南アジア、中国への進出の窓口として、もっと発展したのではないでしょうか。

台湾出身の金美齢さんは、日本精神の重要性を主張されています。日本精神とは「時間を守る」「信用がある」「勤勉である」「ルールを守る」「フェアネス」と言った美徳だと言われます。日本の教育の基本は教育勅語を中心とした修身教育でした。この日本精神の特徴は私より公の重視、孝より忠の重視です。忠義のためには死をもいとわないという武士道でした。敗戦とアメリカ的思想の普及により、この武士道の精神が次第に失われ、犯罪が多発するようになってきているように思います。

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