特集
日本人として誇りを持って生きろ

岩崎芳夫(自由主義史観研究会会員)

祐介や妙子、そしてお前たちの子供が「きちんと生きる」ことを願い、最も重要な精神の規範と信ずる話をしたい。では、きちんと生きることとは一体どういうことなのかと思うだろう。きちんと生きることと誇りを持って生きることは表裏一体である。幾ばくかの誇りを持って生きている人は必ずきちんと生きていると言うことである。では誇りを持って生きると言うこととはどういうことか、己が探し当てたことと絡めて記したい。


誇りを持つことの重要性


「誇り」それは日常では感じる機会も少なく、また人それぞれに感じ方も違うだろう。例えば一生懸命真面目に仕事をして、何らかの形で社会に貢献していることを誇りとする人もあるだろう。自身や家族が何らかの善行や行動により称されたこと、役職や議員など要職に就いたことを誇りと思うこともあるだろう。

しかし、これらは多分に個人の立場的なことであって、個人レベルでは誇りを感ずれども国家国民レベルでの共有、即ち日本人としての誇りは存在していない。言い換えれば、個人的な立場での誇りは自我自賛的満足の域を脱せず、日本国民たる民族性人間性の尊厳に立ち返っては未完の状態である。

今の社会を見てどのように感じているだろうか。道路には辺り構わず大小のゴミが捨てられ、成人式では式典を妨害し主催者を罵倒し馬鹿騒ぎ、暴走と爆音による深夜の安眠妨害、電車内での迷惑を省みない携帯電話、節度・恥の心・奥ゆかしさを失った公衆面前での化粧、会話を聞けば貧しく堕落した訳の分からぬ言葉、詐欺の横行、何ら理由も無く強盗や強姦・殺人まで犯すこの世の中、何故こんなにも荒廃した世の中になったと思うだろうか。

些細なことのようで最も重大なことがある。サッカーや野球の国際試合での国歌斉唱をきちんと歌わない選手。学校行事での国旗掲揚や国歌斉唱に起立を拒み斉唱しないことを自由と主張する教師、学生、朝日新聞。前者は犯罪的行為であるに対し、後者の国旗国歌への敬意なき態度は些細なこととして見られがちであるが、これらは皆、行動は異なるも要因同一で、日本国民としての普遍の誇りを失ったがゆえの貧しい意識の成せる所業である。規律を以って国旗掲揚や国歌斉唱を行なう姿に、誰が荒廃した姿を連想できようか。


戦前の教育とは


私たちが親以外の大人で一生懸命接してくれていたのは教師であった。悪さをすると否応無しに拳骨やビンタを貰ったものだ。しかし、その拳骨には教えの気持ちがあり生徒達にも伝わっていた。当時は当り前の空気ゆえ特段の意識も無く過ごすも、今に思うは、戦前の教育を受けた教師が多く存在し、サラリーマンではない本物の教師の教えがあったからと信ずる。自分達の親より年上の教師が多かったのだ。では、戦前の教育を受けた教師の存在がなぜ良かったのか。私には現実的には判りえないことであるが、戦前までは明治天皇により発布された教育勅語を基本理念として教育が成され、『修身』により道徳は勿論、日本の歴史や伝統、日本人としての自覚を養い、親を敬い年長者に敬意を払い、世の為人の為、惹いては国家の発展と護りのため学問に励めと教えられてきた。この点から見れば、戦後教育を受けてきた我々には、人格形成の部分で到底戦前の人々に及ぶところではない。


戦前の教育の成果が判りやすく色濃く見えるのは戦時中の兵士の遺書である。

書出しは父上様、母上様で始まる。内容は、父母の健康を案じ、子の立派な成長を願いそれを妻に託す言葉。そして国の為に死ねることを誇りとし、父母に喜んでくださいと願う言葉。結びに、靖国の桜花となって再会できるゆえ悲しむなかれ、などと多くの戦没者が遺書に認めている。毛筆による文面は、誰しも例外なく、教養人格溢れる文章と達筆なる筆さばきで書かれ、時の教育の姿が滲み出ている。
このような人々が暮らした戦前の時代、貧しくとも人間味あふれる時代であり、人々が皆、親兄弟を思い隣人を思い滅私の精神で国家を思い暮らしてきたことが窺える。

今日の有史以来かつてない荒廃、先進諸国においても我国だけの現象だそうである。その荒廃は、即ち心の荒廃が招くものであるが、結論から述べると、日本国民としての誇りが持てないこと、また持たないことが原因の根幹である。

誇りが持てないとはどういうことか。それは占領政策や戦後教育によってそれまでの過去の歴史を誤った罪悪的観点から否定し、先人の所業を罰し糾弾することで、脈々と伝わってきた日本人固有の精神を断絶せしめ、日本国民としての誇りを捨て去ってきたからである。即ち、強大な力と策略により戦争犯罪国家と言うレッテルを貼られ、自らそのレッテルを守り続け、自虐的史観を信じ続けてきた結果の今日の荒廃と愛国精神の欠如は、ある意味において当然の結果でもある。私が何故今このようなことを書き、今更のように歴史を勉強しているのかについて、これから触れていきたい。


歴史に関心を持つこと

先に説明したように、学校では戦前の教育を受けた教師に教えられたが、今日の教育ほどではないにしろ自虐的史観に基づいて日本は侵略してきたと教えられてきた。一般市民は勿論、例え軍人であったとしても国際間の政治戦略的策謀など、歴史的真実の詳細は知り得ないのであるから当然である。

遡ること小学五年の頃、遠足の羽田で零戦のプラモデルを発見し購入。後日一生懸命組み立てた。当時の男子なら誰もが歩むように飛行機に憧れ、美しい零戦の機体に憧れた。次第に零戦に関する情報を吸収するようになると、稀に見た戦争フィルムから映し出される零戦の特攻シーンなどから、悲惨で惨く可哀相な思いが生まれ、本当に日本人は悪いことをしたのだろうか、という思いが最近まで続いていた。永い間どこか体の奥底に仕舞い込んでいたこんな思いを、ある時偶然に爆発するかのように目覚めさす本に接し、以来本当の歴史を知りたいと言う強い欲望を持ち続けている。

歴史に関する書籍は気持ちが動いたとき読めばよい。ここでは私が勉強した結果、即ち国家に誇りを持ち社会に役立ちたいと願うような人間になるためには、歴史を正面から見つめ史実を知ることが唯一にして最も重要であるという観点で話を進めたい。


近隣国家の現状


現在韓国では盧武鉉政権が本年(`04)3月、反日法を制定し、日本統治時代に日本と友好関係にあった所謂協力者を断罪するため調査を行っている。遡ること1948年、日本の朝鮮総督の暗殺計画などを共謀した李承晩は米国の後押しで初代韓国大統領に就任し、有名な李承晩ライン(韓国の一方的且つ不当な領海線)を宣言し日本漁船を拿捕し続けてきた。(拿捕=外国船舶を強制的に捕らえる。日本人船員は2〜3年強制抑留された)

同大統領は就任以来、日本の朝鮮統治は日本政府による侵略と搾取の時代であったとして、韓国全土に反日教育を徹底してきた。戦後韓国は一貫して、日本の朝鮮半島への文化的財政的投資を一切考慮することなく、日本の統治目的は、米穀や農産物・金品の搾取、労働者の強制連行、従軍慰安婦の強制連行など、朝鮮人民を虐げることにあったとして批判を繰り返し、今日の政権に至るまで首相の靖国参拝や歴史教科書の記述問題などと共に日本を非難し続けている。

事実はどうであったか、朝鮮半島は国家ではなかった。ロシアに占有されるか中国の属国を継続するかの岐路にあって、朝鮮の発展と人民の生活向上は日本との合併無くして達成できずと決断し、朝鮮の併合申入れに係る協議の上実施された。日本の狙いは、国家体制を確立し自立できる見込みを有しない朝鮮を、日本国として国家の主体を整えることによるロシアの南下防御にあったのである。

日本の統治政策は、台湾及び朝鮮半島に、それぞれ国家予算の四分の一ないし五分の一の巨費を毎年投じ、道路整備、鉄道整備、治水ダム事業、耕地整理、灌漑用水事業、上下水道事業、電力施設、教育医療施設整備、産業の興隆、行政警察機構整備、郵便事業などおよそ国家として必要な全ての投資を行い、日本国の一地方として内地と全く同様に統治してきた。日本批判に言う米穀等の搾取は謂れもなきこと。日本が手塩に懸けて農業基盤整備を興し、結果生じた余剰米を内地米より高額な価格で買い取った事が事実である。

背景には、日本の統治政策が併合地域を真に日本の一部として捉え、未来永劫日本国であるとの考えから、併合地域の国民生活を内地と同等の水準に引き上げる狙いがあったのである。欧米の殖民地政策が搾取一辺倒で一切の文化的遺産を建設せず、かつての植民地が未だ発展途上にあることからも、日本の統治が如何に民主的且つ公正に文化水準を傍受させてきたか、かつての統治国のその後の発展を見れば明らかである。

一方の中国は、江沢民政権以来反日教育を徹底し、日本の進出を侵略と言い、全土に捏造の資料を数多く展示する反日記念館を建設し、取り分け南京市の虐殺資料館は凄まじいほどと聞く。勿論韓国同様靖国参拝や教科書の記述に対しヒステリックな恫喝さえ行っている。


歴史的背景

ではその批判の対象となった歴史の話をしたい。まず歴史を正しく知るには、現代の国際社会構造と環境をそのまま置き換えて考えてはならない。そして今日と異なる当時の日本人の心も知らねばならない。大東亜戦争に至るまでアジアの独立国家は日本とタイ王国だけであったこと。他のアジア諸国は完全なる欧米の植民地であり、欧米本国発展のため、石油・銀・鉄鋼・繊維・アヘン・農産物を生産させ、現地人は極端な下級生活を強いられ、搾取と隷属的支配が続いていたこと。道路・河川・鉄道は勿論のこと、上下水道・教育に至るまであらゆる社会的投資が行なわれなかった。

特殊なのは中国で、清国の時代から欧米の進出により租界(治外法権地域)などが造られ半植民地化されていた。加えて中国は古来から大小の地方軍閥が争いに明け暮れ、統治者が代わる都度重税を貪られる搾取政治の巣窟であった。特に辛亥革命以後は軍閥単位の地方政府が乱立する戦乱状態で、その結果国家としての体を成さず、必然的に欧米の進出に甘んずるところとなる。

朝鮮半島は承知のように中国の衛星王朝であった。歴代王朝に貢ぐ立場の王朝で清国同様に国家の体は成しえていなかった。付け加えて言えば、中国から見れば我が日本は海を隔てた野蛮な民族で、冊封朝貢秩序の下位に位置すると捉え、遥か遠くの欧米諸国より下位の民族と見られていた。

こんな時代に東アジアの歴史上最も重要な影響を加えた国家がある。それはロシア即ちソビエトとアメリカ合衆国である。ソビエトは南下政策に即ち領土拡張主義と共産主義の世界移植、アメリカは白人優位主義の人種差別政策を採っていた。

明治維新は言うまでもなくこのようなアジアの実情を見聞し、新たな体制の下自立した国家を建設すべく、国力の高揚を目指し崇高な意志により行われた。そして文盲を無くすことは言うまでもなく高度な教育によって工業力を高め世界の一等国の仲間入りを目指したのである。ロシアはこの頃から不凍港を求め領土拡張主義とともに南下政策を採り始めた。以来、日本は自立したアジアを目指し、朝鮮や中国或いは東南アジア諸国が侵略を跳ね返し、植民地からの脱却を願う諸政策を実施した。これはアジア諸国と日本の自存自衛のためであった。

日清戦争(1894)は、このような時代背景から朝鮮半島の民主化を切望し、朝鮮王朝側に立った清国の出兵を契機に民主側(東学党)の支援のため開戦となったものである。

日本は日清戦争の勝利により、台湾と遼東半島の割譲を得たが、知ってのとおりロシア・フランス・ドイツの干渉により遼東半島を清国に返還し、後の義和団事変(1900)以後ロシア軍は満州と遼東半島に居座ることとなる。ロシアはこれを契機に朝鮮半島への権益を拡大し、手中に収めんがための謀略を活発化させ、これを国家存続の重大危機と捉えた日本はロシアに宣戦布告(1904)したのである。国土・国力から見て明らかに弱小国家である日本が、強国ロシアに滅亡をかけて挑んだことは如何なる危機と覚悟があったか理解できるだろう。

日露の戦い無くば、朝鮮半島は今日ロシアの一部であり日本の存続も無かった。今この戦いまでも侵略説を唱える者がいるが、ロシアや北朝鮮の一部であったなら今どんな社会であっただろうか。


中国での動き

日本の社会がこれほどまで荒廃したのは大東亜戦争以後のことである。その大東亜戦争は多くは日米の戦いが論じられるが、昭和12年に本格化した支那事変も大東亜戦争である。そして支那事変は日米戦争(米国では太平洋戦争)の発端であった。

ではその発端はと言うと、まず日清戦争後清国の威信は急激に落ち、欧米の更なる進出を招き半植民地化していた。勿論日本も一等国の一員として、清国とのあらゆる条約を以って進出し利権を確保していたが、今日ではこれすら侵略であったと言われている。明治44年(1911)辛亥革命が勃発、孫文により中華革命党が組織され中華民国が誕生した。

この後ヨーロッパでは1914年8月第一次世界大戦が勃発。日本は日英同盟による要請でドイツに宣戦布告、ドイツ租借地膠州と青島・山東鉄道・ドイツ領南洋群島を占領し、更に権益拡大を狙う日本は、すでに承認を得ていた英外相の理解の下、対支二十一カ条の要求を袁世凱政権に突きつけ、南満州鉄道・安奉鉄道の経営期限と関東州の租借期限延長並びにその他の強行的対支要求による特殊権益を確認。この結果、排日運動激化の一大転機となる。(後に日本権益を認める石井ランシング協定1917年)

一方帝政ロシアでは1917年に共産革命が起こり、1919年レーニンにより国際共産党組織コミンテルンを結成。全世界の抑圧されている国家に共産化への謀略を開始し、やがて中国では毛沢東が中国共産党を組織。1921年上海フランス租界で第一回党大会が開催された。

コミンテルン即ちレーニンの世界革命戦略は、民族解放運動を支援し外国勢力を駆逐、その後共産勢力が開放組織から権力を奪い革命を遂行するというシナリオである。このためには民族運動側や外国勢力に対しあらゆる謀略を講ずるが、中国にあっては中国国民党組織内に多くの共産党員を潜入させ謀略を講じていた。
因みに日本ではコミンテルンの働きにより、大正11年(1922)日本共産党が結成された。


満州について


ここで今後の歴史の動きを左右した満州のことも触れておく。

満州は、満州人が万里の長城を超え中国を制覇し清王朝を建設する以前、中国の一部であったことは無く、清国建設後も満州への漢人移住が禁じられていた。しかし密かに越境し盗墾や盗伐を行なったり匪賊(略奪集団)なども出現し、移住が解禁されると馬賊や匪賊、張作霖などの軍閥が蔓延るようになり、数百万とも云われるこれらの勢力により何重もの搾取や略奪を受ける民衆が塗炭の苦しみに喘ぎ、満州も清国の内情と同様、略奪・搾取集団が割拠する無法の地となったのである。
先に触れたように、日露戦争の勝利により義和団事変(清の女皇帝西太后は義和団と結託し列強排斥行動に着手、欧米の要請により日本・ロシアが討伐した事件)以後、満州に居座っていたロシアから満州の権益を得た日本は満州の開発に着手した。洪水防止・灌漑・上下水道・工業用水・多目的ダム・都市建設など近代国家に必要な全てである。

中国は古来から「賊のいない山は無く、匪のいない湖は無い」と言われるように、中国大陸全体が略奪・搾取・戦乱の社会であり、太平天国の乱では人口の五分の一が消滅している。特に辛亥革命以後は五代十国時代を上回る騒乱の時代で、清王朝の遺産争奪を廻る北洋軍閥政府・南方革命政府などの諸政府の争いや敵対軍閥間の戦いが絶えなく、一度の戦いでも100〜200万の兵が投入され、数十万単位で戦死している。これが延々続くのである。

日本によって近代化が進みつつある満州は、中国人民にとって見ればこの上ない楽天地(圧政無く略奪天国)であり、年間百万人以上の漢人が雪崩れ込んで来ている。

このような世情から中国の王朝復活を目論み、清朝最後の皇帝溥儀をして君主制復活をとの動きが生じた。このような動きは満州でも同様で、満州人による民主主義運動や満州国独立運動に発展し、西太后の陵を爆破する蛮行に及んだ蒋介石国民党軍に激しい怒りをもった溥儀は復辟(君主の復権)を決意。この意を汲んだ関東軍はソビエトの南下政策への対処と満州の混乱を収拾し満州人・日本人の治安回復を図るため、南満州鉄道の爆破(柳条湖事件)を計画し、これを蒋介石と手を組んだ張学良の謀略であるとして満州事変(昭和6年)を策略、翌年溥儀による満州国皇帝政府を誕生させた。

今日中国では、日露戦争後の満州への漢人流出は強制連行によるもので、満州国建国は関東軍の侵略拠点として作られた傀儡国家であり、溥儀の傀儡皇帝即位は関東軍の脅迫によるものとしているが、全くの事実誤認である。満州国の是非については有名なリットン調査団が報告しているが、独立運動など無かったとする調査結果に対し、溥儀の庭師であった英国人は調査団が知らないことは数多くあったと述べている。

加えて満州国は、エルサルバドル・ローマ教皇庁・イタリア・スペイン・ドイツ・ポーランドを始め多くの国家から承認されており、ソビエトも領事館開設を認め、汪兆銘の南京政府も承認し日満華共同宣言を発するなど東亜新秩序建設の協力を誓っている。また満州国の視察に訪れたフィリピン外相は、「我国はスペインの植民地として三百五十年、アメリカの支配下で四十年経過しているが、住民の生活向上に役立つものは一つも作っていない。満州は建国わずか十年でこのような建設をしたのか」と日本の満州政策を称えた。

産業面でも重工業の生産量は終戦時には全中国の90%、電力発電量は全中国の十倍に達し、毛沢東は全中国の拠点が失われても東北(満州)さえ確保すれば革命の基礎を築けるとも報告しているほどであった。このように満州国建設は人民に歓迎され一大産業国家となったのであるが、皮肉にも戦後の中国共産党の占領により中国を支える大いなる遺産となってしまった。


支那事変への過程


中国の内情に戻ると、大正15年、孫文の遺志を継いだ蒋介石は北伐を開始、昭和2年(1927)3月、国民政府樹立と相前後する北伐の折、撤退する北軍を警戒していた南京城内の日本・英国・米国領事館は武装を解除し、国民党軍への敵意無きことを示した。しかし国民党軍(国民党軍に紛れた共産党員の仕業)は凄まじい勢いで各国領事館や外国人邸宅を襲撃し、殺人・略奪・婦女暴行女子供を含む全員が虐殺されるテロが発生し、英米は艦砲射撃で反撃し事態を収拾させた。(南京事件)

そしてこの年、国民政府は不平等条約排除・満期条約の無効・国民政府の関与しない条約は無効かつ拘束力無しとの声明を発表した。

翌昭和3年5月、再度の蒋介石軍の北伐の折にも済南に入城した国民党軍は、援北拒南の疑念を危惧し防御施設を撤収した日本軍警備隊と衝突し戦火は商埠地域に拡大、双方事態収拾の協定を結ぶも国民党軍に徹底されず日本人住民を虐殺。国民党軍総司令官蒋介石に事態収拾のための交渉を求め、要求に応じない場合の実力行使を伝達したが、誠意ある回答を得ず予め住民警護のため進駐していた日本軍は国民党軍を駆逐し済南城を占領し事態を収拾した。後に蒋介石は、この済南事件を日本軍の北伐妨害であるとして非難している。

満州の説明でも触れたように、中国は辛亥革命以後軍閥や匪賊の争いが絶えなく、その争いも規律なく骨肉の争いが展開され、常に略奪や虐殺が行われていた。戦乱に乗じた日本軍や日本市民に対する中国側のテロ事件は三千百件以上も発生し、昭和12年(1937)7月には日本軍の演習に国民党軍が発砲した盧溝橋事件、日本人住民を大量虐殺した通州事件、日本海軍中尉殺害が発端となった第二次上海事変が起こったが、盧溝橋事件以後も日本は戦争不拡大の方針に基づき国民党軍に和平を呼びかけ、一旦は受諾するも蒋介石は「自軍の駐屯区域に対する如何なる制限も甘受し得ない」として排日侮日の態度を明確にし、その後も大小の中国側発端の紛争が続き、事態収拾のため日本側がその都度提唱してきた解決条件や協定を、誠意を持って履行することなくテロ行為を重ねる中国側に対し、最早和平の意思なしと認め、武力行使を決し支那事変はずるずると全面戦争に発展した。

この要因の一つに、逐次的政略出兵が戦争終結の好転を逸したと言われる。具体的には一撃で中国軍は衰退するとした思惑。武力行使決定後も戦争不拡大方針を採ったこと。北方の脅威に対する兵力温存。欧米の牽制。更に国民党副総裁汪兆銘との善隣友好表明による和平呼応が効果を示さなかったことが挙げられる。


アメリカの策謀(軍縮、日英同盟廃棄、通商機会均等)


この間に多くの謀略が画策されている。アメリカは1921年(大正10年)ワシントン会議を招集し、三件の条約を締結するに及んだ。その一つ四カ国条約は日・米・英・仏で交わされ、太平洋地域の領地及び属地の相互尊重と非軍事基地化を約し、アメリカの圧力で条約批准による日英同盟の消滅が第四条に加えられた。海軍軍縮条約は日本の軍備を弱小化する意図で主力艦を米英の六割に制限。九ヵ国条約は日本の中国進出を制限する目的で、中国の主権尊重・門戸開放・通商の機会均等を定めた。これらに条約は、1921年7月日英同盟が満期を向かえ、更新を恐れたアメリカが画策したもので、将来の米国覇権構図の確保のため日本の中国での覇権を制約し、国力相応の海軍軍備と日英同盟の分断を狙ったものであった。


コミンテルンの謀略


中国国民党軍による多くの蛮行には国民党に潜んだ中国共産党員の謀略やレーニンの世界革命戦略で示すようにコミンテルンの活動や支援が数多くあった。辛亥革命以後の戦乱時代の最中の1921年、中国共産党は結成された。一方国民党は1923年1月党の改組を行い、コミンテルンの戦略により全共産党員が国民党に入党。第一次国共合作が完成し黄埔軍官学校が開設された。そして国民党内共産勢力は増大し、1927年に発生した南京事件を契機に共産主義の危険に気付いた国民政府は共産党征伐を開始する。

1936年12月、蒋介石から離反した張学良は蒋介石を逮捕。死刑を求める毛沢東に対しスターリンはコミンテルンを介し蒋介石釈放を命じた。共産党を代表し蒋介石と会談した周恩来は黄埔軍官学校で蒋介石の部下という旧知の仲で、内戦停止一致抗日を約し第二次国共合作が成立した。

後に張学良は、蒋介石に内戦停止一致抗日を説いたことを間違いであったと述べている。

更に盧溝橋事件の局地解決後、コミンテルンは

1)あくまで局地解決を避け日本を全面戦争に導かねばならない。

2)右目的貫徹のため局地解決や譲歩によって支那解放運動を裏切る要人は抹殺すべし。

3)下層民衆階級を扇動し蜂起させ、国民政府に開戦止む無しに至らす。

4)対日ボイコット及び日本支援国にもボイコットと威嚇実施。

5)国民政府下級幹部・下士官・兵並びに民衆を獲得し党の興隆を果たす。などの指令を発し、支那事変を泥沼化させ、北支及び満州の日本の脅威解消、国民党政府弱体化による共産党政権樹立、日本敗戦後の日本共産化を目論んでいた。


欧米の援蒋活動


支那事変が本格化すると、米英は蒋介石国民党軍に対し借款供与を開始して支援を開始。更に米英仏ソは、蒙古・ビルマ・仏印(現ベトナム)・上海香港などのルートを経由し重慶への物資補給を行い、昭和15年頃の月高補給量は3万1500トン(参謀本部推計)にも上っていた。

軍事面では、ルーズベルトの発案で志願制による戦闘機部隊を組織し、航空機と共に中国に送り蒋介石の支援を行なった。これが有名なフライングタイガースである。

この結果、早期決着を図ろうとする日本の動きとは裏腹に支那事変は長期化への道を辿ることとなり、欧米の代理戦争の色合いが強くなっていった。南方援蒋ルートの一部である仏印ルートは、日本との協議で仏印総督により閉鎖が決定。その監視に軍機関が北部仏印に進出し、更に遮断の徹底とビルマルート遮断のため兵力増強を計画。また北方支援ルート策謀者ソビエトに対しても蒋介石支援の中止を要請するとともに日ソ中立条約の交渉を開始した。


日本の時局処理方針


昭和15年7月、大本営陸海軍部は諸般の情勢に鑑み、第二次近衛内閣と大本営政府連絡会議を開催。ここで「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」を採択。具体的には

1)世界情勢の変局に対処し、支那事変の解決と好機を決し南方問題を解決。

2)支那事変処理では政戦総合力を集中、第三国の支援行為を絶滅し速やかに重慶政府の屈服を図る。

3)対外施策は、支那事変処理及び南方問題解決を目途に
ァ独伊との政治的結束を強化し、対ソ国交の飛躍的調整を図る。ィ米国には公正なる主張と毅然たる態度を保持し、帝国の必要施策遂行に伴う已む無き自然的悪化は敢えて辞せざるも、常に動向に留意し、我より摩擦を起こすを避けるよう施策す。ゥ仏印の援蒋行為遮断の徹底並びに我軍の補給・軍隊通過及び飛行場使用を容認させ、必要な資源獲得に努め必要なる武力行使を認める。ェ外交的措置により蘭印での重要資源獲得に務む。

4)対南方武力行使に関し
ァ支那事変処理終了の場合、南方問題解決のため内外諸般の情勢許す限り好機を決し武力を行使。ィ支那事変未処理の場合、第三国との開戦に至らざる限度で施策するも、内外諸般の情勢により有利と判する時、南方問題解決のため武力を行使することあり。ゥ武力行使に当たりては、極力英国のみの限定。但しこの場合も対米開戦は避け得ざること有るべきを以て準備に遺憾なきを期す。

所謂南方問題は、液体燃料の欧米依存を脱却し、自給自足体制を確立するため、蘭印(現インドネシア)を開放し勢力圏に納める必要があったが、英領を経由せず蘭印を武力処理することは出来ず、英蘭不可分の方針と対米英への施策方針の判断が重要となった。

液体燃料を始めとする戦略物資は米英ブロック(米英本国及び植民地)に依存しており、輸入に必要な外貨は製糸と綿製品の輸出により得、その輸出先は米・インド・蘭印・豪州で綿花の主たる輸入先でもあったのである。即ち原料の輸入、綿製品の輸出、得られた加工収益で戦略物資を購入する全てが米英依存経済という現状であった。

昭和14年、欧州で勃発した第二次大戦に日本は不介入方針を宣言し、支那事変処理に邁進したのであるが、必要好機を決し南進を行い、日独伊軍事同盟をも辞せず、対米戦備に着手するという重大決断を行なったのである。これは、最早支那事変が世界的規模と構想によらずば解決せずとの事態に追い込まれた結果であったが、欧州戦局の誤判も根底にあった。


米国の対日戦争挑発行動計画


米国は昭和13年6月、支那事変への支援と反発から道義的禁輸を開始し、日本への経済圧迫を強化してきた。昭和15年9月、援蒋ルート遮断と南方処理のための北部仏印進駐の三日後の26日、米国は日本への屑鉄を禁輸。翌昭和16年8月1日、対日石油輸出を禁止した。この間、日独伊軍事同盟を奇貨として、ドイツに対抗していた英国に孤立主義を堅持する米軍を支援出動させる状況を作り出そうとする計画が認められ、1940年10月7日、日本に対する「戦争挑発行動八項目覚書」がアーサー・マッカラム少佐により策定。大統領軍事顧問ノックス、アンダーソン両海軍大佐を介しルーズベルトが承認した。

その行動計画は、ハワイの陸海軍部隊並びに太平洋地域の英蘭植民地部隊を日本に攻撃させるよう計画されたもので、具体的内容は

A 太平洋及びシンガポールの英軍基地使用協定締結。
B 蘭印の基地使用及び物資補給に関するオランダとの協定締結。
C 蒋介石政権に対するあらゆる援助の提供。
D 遠距離航行能力を有する重巡洋艦一個戦隊を東洋・南東アジアに派遣する。
E 潜水戦隊二隊の東洋派遣。
F  ハワイの艦隊規模を維持する。
G 日本の不当な要求、特に石油に関する要求をオランダが拒否するよう主張する。
H 英国の対日通商禁止と協力して行なう日本との全面的通商禁止。以上の八項目全ての戦争挑発行動が次々に現実的かつ着実に効果が見えるよう実施された。

D項目の重巡洋艦派遣はチャーチル首相の要請に基づくもので、この挑発行動はポップアップ巡洋艦と言われた。ポップアップ巡洋艦は1941年3月15日以降三度に亘り実施され、三隻の巡洋艦が九州四国間の豊後水道にも侵入した。しかし作戦の前月、太平洋艦隊司令長官キンメル大将は、海軍作戦部長スターク大将に「最も無分別な行動で戦争を招く結果となる」と批判している。


日米交渉


日本はこの戦争挑発行動などの具体化による危機的状況を改善すべく昭和16年4月、日米交渉を開始。この過程で作成された日米了解案の重要課題は、第二項欧州戦争に対する両国政府の態度、第三項支那事変に対する両国政府の関係であった。第二項は日本が三国同盟を実質的に骨抜きにし、条約の義務を逸脱してまでもその義務をドイツが第三国の積極的攻撃を受けた場合のみ発動するとした。

また第三項の日米合意を経た和平条件を以って大統領が蒋介石政権に和平を勧告するとした和平条件も、

a支那の独立
b日支協定に基づく日本国軍隊の支那撤退
c支那領土の非併合
d非賠償
e門戸開放方針の復活
f蒋政権と汪政府との合流
g支那への大量的集団的移民の自制
h満州国の承認などが双方調整後の条件となり、日本の大幅譲歩の跡が見られる。

元より近衛首相以下外務当局も本案を歓迎し、陸軍中央部も支那及び日米間の喫緊の事態収拾に希望を持ったのである。しかし松岡外相帰国の4月22日、大本営政府連絡懇談会の席上松岡外相は検討の余地ありとして、日米了解案第二項及び第三項の内容を大幅に後退させ高圧的かつ高飛車な内容に修正した。(5月12日提案)

日米了解案に対する6月21日付け米国側第一次提案にはハル国務長官のステートメントが添付。「日本指導者内に国家社会主義の征服政策支援者がおり、考究中の提案採択が希望せる結果を収める基礎を提供するに幻滅を感ずる」と松岡外相を批判している。日本側は米国側第一次提案を受け、第二次提案を行なうのであるが、対米交渉継続が危ぶまれる中、松岡外相は怒りを表しハル長官のステートメント拒否の訓電のみを送信した。

第二次提案は7月15日訓電送信されたが、野村大使は内容不満としハル長官に送付せず。その後7月16日、第二次近衛内閣は総辞職し、18日第三次近衛内閣が成立。25日アメリカは米国における日本資産を凍結。28日蘭印は前年より継続中の日本との石油民間協議を停止、同日日本軍の南部仏印進駐。8月1日の石油全面禁輸の後、近衛首相が日米首脳会談申し入れを行なうが、8月17日、チャーチル・ルーズベルト会談で合意した対日戦争警告と首脳会談の回答を受領した。

回答は原則賛意を示すも、日本が膨張主義的活動を停止し、合衆国が誓約し得るプログラム原則にて太平洋の平和プログラムを一層明瞭に提示せよとの内容で、これに対し熱意を持った回答と近衛首相の大統領宛書簡を送付し、これをルーズベルトは賞賛し、首脳会談の候補地を具体的に示すなど意欲あるかのごとき態度を見せた。しかし、同日会談したハル長官は、話を纏めた上での首脳会談とすべきとして、支那撤兵・三国同盟問題を取り上げ、会談は不成立に終わった。

陸軍参謀本部及び海軍軍令部は時局処理要綱策定以来、情勢推移に鑑みる国策遂行方針の検討を常に実施。ここに至る時局の下8月30日、

1)帝国は自存自衛を全うする為対米(英蘭)戦争辞せざる決意の下、10月下旬を目途に戦争準備を完整する。

2)帝国は右に併行し米英に対し外交手段を尽して要求貫徹に務む。対米(英)交渉に於いて最小限の要求事項、許諾限度は別紙の如し。

3)10月上旬に至るも尚要求貫徹し得ざるときは、直ちに対米(英蘭)開戦を決意す。

以上の「帝国国策遂行要領」陸海軍案を策定し、9月6日の御前会議に諮られた。国策遂行要領の要求事項・許諾限度の別紙は日米了解案に反映され、汪兆銘政府との取り決めによる軍隊駐屯。仏印を基地として支那以外に武力進出せず。公正な極東平和確立後印度支那より撤兵。を以って9月25日米国に提示された。
10月2日ハル長官は野村大使に対し、太平洋の平和維持の為 Patchup の了解不可、Clearcut Uglyment が必要と述べ、中国・仏印からの全面的撤退を要求し日本軍の駐屯は平和と安定の招来に期待できないとした。また通商無差別に関しても石井ランシング協定による地理的近接特殊関係の放棄を迫り、再度のハル四原則の全面受諾を迫ったのである。

ハル四原則は、

1)一切の国家の領土保全及び主権の尊重

2)他国の国内問題に対する不関与の原則

3)通商上の機会均等原則

4)平和的手段による現状変更を除く太平洋の現状不撹乱であり、友好的語調の中にも懸案の全問題に異議を表明している。

帝国政府にあっては、譲歩に継ぐ譲歩をし、四原則もこれを認め、然るに米国の態度は妥協の意思なく妥結の見込みなし(東条陸相)との意見や極力戦争を回避したいが和戦の決は首相一任(及川海相)とする意見が渦巻き、近衛首相は「どちらかと問われれば外交でと言わざるを得ない。戦争に自信は無い」と述べ、これに対し東条陸軍大臣は「それは国策遂行要領策定時に議論すべきこと。外交でということは外交妥結の目途有りとの態度で無ければならない」と叱責し、10月16日第三次近衛内閣は総辞職となった。

18日東条内閣が成立。首相推挙の理由は、国策白紙再検討困難であり、陸軍を掌握しここに至る経緯に精通した人物で和戦何れにも難局を処理し得る能力を備えた人物として推挙。国策再検討の要請を天皇から受けた東条首相は、連日大本営政府連絡会議を開き検討に入りました。

しかし、陸軍参謀本部は当初陸海軍統帥部が予定した11月初頭の開戦期日が大幅に遅れ、最終的開戦時期は12月初頭を逸しできず、拠って国策再検討の時間は無いと訴えた。

その理由は、南方における米英蘭の戦備強化、特に航空戦力増強著しきこと。満州方面冬季大兵団作戦困難にて南方攻略作戦を優先し、次季春以降北方ソ連に対処すべきこと。真珠湾攻撃と一体併行作戦である南方渡洋上陸作戦の気候悪化前の貫徹が主な問題であった。

国策再検討は、11月1日総合的結論を求めるに至り、東条首相は事前の腹構えとして三案を提示した。

1)戦争せず臥薪嘗胆す。(臥薪嘗胆=硬い薪の上で寝て苦い胆を嘗める思いで屈辱を晴らす機会を待つ)

2)直ちに開戦を決意し戦争で解決。

3)戦争決意の下作戦準備と外交を併行する。

臥薪嘗胆案は二案に別れ、限度以上の譲歩による国交調整行なった場合と外交不調の現状のままの臥薪嘗胆であった。永野軍令部総長は臥薪嘗胆を行なう以上は前者。後者は米国の逐日軍備の増強と日本包囲を強化し、援蒋援ソを増進、日本の国防上極めて危険と反論。結果第三案に決し、更なる交渉に期待を賭け交渉期限を12月1日午前零時とし、帝国国策遂行要領が以下のとおり修正された。

1)帝国は現下の危局打開により自存自衛を完うし、大東亜の新秩序建設の為、米英蘭戦争を決意し左記措置を採る。(米英蘭戦争決意=開戦の意にあらず)

ァ武力発動の時期を12月初頭と定め陸海軍は作戦準備を完成。ィ対米交渉は別紙要領により之を行なう。ゥ独伊との提携強化を図る。ェ武力発動直前、タイ国との軍事的緊密関係を樹立。

2)対米交渉が12月1日午前零時までに成功せば武力発動中止。

帝国国策遂行要領に付随する国策説明書を作成するに、開戦気構え強き印象から陸軍省政策担当大佐が「戦争七分外交三分」として起草。東条首相兼陸相はあくまでも戦争五分外交五分として書換えを命じている。

この後同日11月1日大本営政府連絡会議で成案され、11月2日東条首相は杉山・永野両統帥部長を列立し天皇に内奏した。東条首相の奏上は声涙下り、天皇は一語一語納得され、11月5日、御前会議にて帝国国策遂行要領は採択された。(声涙=涙と共に言葉を発する)

帝国国策遂行要領の別紙対米交渉要領は、9月25日案に比し大幅な歩み寄りを示している。

第一は、駐屯地域を限定的に明示し、北支及び蒙彊(モンゴル)の一定地域及び海南島と明示したこと。
第二は、駐屯期間を25年に設定したこと。
第三は、駐屯部隊以外の軍隊の撤収期限を不明確な併記「平和成立と同時に・治安確立と共に」を平和成立後二年以内とした。
(外務当局の手違いで「治安確立と共に」が削除されず野村大使に打電、野村大使からの当該箇所翻訳確認照会にも拘らず日華基本条約の英訳変更適当に有らずと返電している)
第四は、支那事変解決した場合仏印から撤兵する旨明示。また通商無差別問題では、遂に地理的近接特殊緊密関係の原則をも放棄した。当時の外務省東亜兼米局長にして、米国がこの原則認めぬ筈無しと感嘆するほどの努力であった。

また乙案では、本案成立を期し南部仏印駐屯中の日本軍を北部仏印に移駐する旨の追加表明をするなど、屈辱的とも言える最後的努力を示し交渉に挑んだ。
野村大使は11月7日ハル国務長官、10日ルーズベルト大統領と会談し、精魂込め交渉を行なうも、なお米国は受入れを拒絶し時局収拾に至らなかった。

会談に先立ち、これらの最終的とも言える野村大使宛電文は全て解読され、了知の下米国政府は11月7日閣議で、「現政策続行と攻撃か後退否かは日本次第」と言う方針決定をした。従って日本の交渉案は、最早米国の聞き及ぶところでなく葬り去られていたのである。

日本時間の11月27日午前9時、(ワシントンとの時間差14時間)野村、来栖両大使は所謂ハルノートを受領した。

(1) 四原則の無条件承認 (ハル四原則を言う)
(2) 支那及び仏印からの全面撤兵 (米国は支那に満州含む認識で表記せず)
(3) 国民政府(汪兆銘)政府の否認
(4) 三国同盟の空文化

11月28日ハルノートの配布、29日大本営政府連絡会議開催。臥薪嘗胆派の東郷、賀屋両文官大臣、対米開戦消極姿勢の海軍省首脳さえも全員異議逡巡無く対米英蘭開戦を議決。

12月1日午前会議に上程の議案以下の通り、
対米英蘭開戦の件 十一月五日決定の「帝国国策遂行要領」に基づく対米交渉は遂に成立するに至らず、帝国は米英蘭に対し開戦す。
本会議での発言には、「国民全部が此の際は大石内蔵之助をやるのだ」と言う声や東郷外相の「米国が今迄の経緯及び一致せる範囲を全て無視し、従来執った最も強硬な態度をさえ超えた要求をここに持ち出したのは、明らかに平和的解決に到達せんとする熱意を有しないものであり、唯日本に全面的屈服を強要するものである。結局長年に亘る日本の犠牲を全く無視し、極東に於ける大国たる地位を棄てよと言うのである。然しこれは日本の自殺に等しい」などの発言がある。

ハルノートの原案は1941年5月に創案され、創案者は対日強硬派であるモーゲンソー財務長官の特別補佐官で、ソ連の共産党スパイであったホワイトによるもので、ここに及んでの採択は交渉経過の全くの無視で断絶は当然の結果であった。

原枢密院議長は御前会議席上、
・ 帝国は対米交渉に譲歩に次ぐ譲歩を重ね平和維持を希望した。
・ 米国は徹頭徹尾蒋介石の立場を尊重し、態度唯我独尊・頑迷無礼である。
・ 米国の要求に忍べば満州事変の成果、日清日露戦争の成果をも放棄を強いられ。
・ 長期の支那事変を克服してきた国民に対し、更に相当の苦難堪えしむること偲び難し。
・ 然しながら帝国の存立脅かされ、明治天皇御事蹟をも失うこと。
・ この上手を尽くすも無駄は明らか、拠って御前会議決定の通り開戦已む無きこと。

と述べている。

翌2日、陸海軍作戦部隊に対し、12月8日を期す武力発動及び侵攻作戦開始の命令が発せられ、真珠湾空襲日時ワシントン時間7日午後1時30分、通告は同午後1時と決定した。


真珠湾攻撃の新たな証拠


戦後かなりの時間が経過した1997年及び2000年5月、「真珠湾の真実」の著者 Robert Stinnett は米国の「情報の自由法」基づく請求により、四千点以上の諜報通信記録関連文書を発掘することが出来た。

対日戦争挑発行動計画(マッカラム覚書)が作成された翌日1940年10月8日、極東の米国人に対する退去勧告並びにマッカラム覚書F項、ハワイを基地とする合衆国艦隊を維持する決定が下された。大統領執務室でこれを聞いたリチャードソン大将は怒りを込め反対し、合衆国艦隊を危険に晒すことを承認しなかった。

1941年2月1日米海軍の艦隊再編成が実施され、大西洋艦隊と太平洋艦隊が創設。これにより合衆国艦隊は消滅しリチャードソン司令長官は更迭され、太平洋艦隊司令長官にはキンメル少将が大将昇格とともに抜擢された。

一方米国は環太平洋レベルで日本の交信を全てキャッチし、無電発信場所及び艦船の位置を特定する無線方位測定、搭載無線機のノイズ識別による艦船の種別及び艦船名が特定され、艦船呼出符号変更も効果は無かった。また、マッカラム覚書が作成される頃すでに日本の五数字暗号を解読、重要な電文は全て日本大使館到達以前にホワイトハウスに届いていた。

昭和16年11月16日、日本海軍部隊は集結地単冠湾に向かい、11月26日、帝国海軍連合艦隊司令長官山本五十六大将は、機動部隊の出動を命じ緊急の場合を除く無線通信を禁止した。

グルー駐日大使は11月上旬、大使館付き海軍武官を夫婦で旅行と称し、瀬戸内海や別府の海軍基地を偵察させた。基地に錨泊する戦艦や空母周辺での慌ただしい動き、零戦や雷撃機の訓練を目撃し、報告を受けたグルーは、ハル国務長官に警告した。この警告を受け、米国海軍は大統領命令により北部太平洋を「真空海域」とする宣言をし、機動部隊が単冠湾を出港した一時間後、米国及び連合国全ての船舶は、オーストラリアとニューギニアのトレス海峡を航行するよう命じられ、結果、日本機動部隊は如何なる船舶とも遭遇することが無かった。

戦後の調査や旗艦赤城の第一航空艦隊参謀源田實中佐も無線封止は守られていたと証言する。しかし、情報の自由法による諜報通信記録の発見による明らかな証拠として、日本機動部隊の無線通信が明らかとなっている。米海軍無線監視局での機動部隊通信傍受記録は、南雲司令長官発信電報60通、東京から機動部隊艦船宛電報24通、空母発信電報20通、航空戦隊司令長官発信電報12通、第一航空艦隊の空母以外の電報8通、ミッドウエー破壊隊発信電報4通、航空戦隊司令官宛東京発信電報1通、合計129通であった。

以上の通信は、通信内容の諜報は勿論のこと、無線方位測定により常に日本海軍機動部隊の航跡位置とも明らかで、米国中枢部は真珠湾攻撃も事前に知り、元より日本政府の発した宣戦布告通知も日本大使館到着以前に解読し了知していたのである。

ハワイ駐留米軍は、キンメル大将を最高司令官とする太平洋艦隊とショート中将を最高司令官とする陸軍ハワイ部隊及び無線監視局HYPOが存在した。

日本海軍機動部隊の無電傍受と暗号解読を証する動きがある。第一は、11月23日キンメルは大規模な演習を実施した。正に日本軍が攻撃隊を発艦させた海域である。翌日、海軍作戦部から日本の奇襲攻撃の可能性あり、攻撃を早める位置に艦隊を置くなとの指令で演習を中止。第二は、太平洋艦隊空母機動部隊司令官ハルゼー中将は、真珠湾防衛のため空母エンタープライズ、戦艦アリゾナを中心とする25隻の艦艇による演習を計画。

しかし、11月26日、海軍作戦部長スターク大将は、キンメルに空母を使用し陸軍機をウェーク島とミッドウェー島に移動するよう命令。陸海軍協議の結果、着艦設備のある海兵隊機を搬送することになり、28日エンタープライズがウェーク島へ、12月5日レキシントンがミッドウェー島へそれぞれ新鋭護衛艦船を随伴し出港した。

ここで指摘できることは、第一に、演習継続による日本機動部隊との遭遇で通常戦闘になることを恐れたこと。第二に、空母機動部隊及び新鋭艦船の温存を図ろうとしたことであり、日本艦船の動きを察知し、且つ又、日本の先制攻撃を期待する動きであることが判明する。

もう一つの重大な仕掛けがある。それは、ハワイに於いて太平洋艦隊戦艦部隊司令官アンダーソン少将及び無線監視局局長ロシュフォート少佐を除き、キンメル大将、ショート中将以下陸海軍部隊は一切の日本機動部隊の動きが知らされていなかったのである。かくて、真珠湾攻撃は一定の成果を見た。しかし、米国にとっても戦争挑発行動の趣旨、即ち最初の一撃を日本に行なわせ、米国民に憎悪を沸かせ日本並びに軍事同盟国ドイツへの参戦を果たすシナリオが見事に功を奏したのである。戦後ロシュフォートは米国民を戦争介入に統一するためには真珠湾の犠牲はきわめて安い代価であったと述べている。


東京裁判の起訴要件

日本の降伏により、マッカーサー連合国軍最高司令官は占領政策を発表。その目的は、日本が再びアメリカ及び世界の平和と安全の脅威とならざること。アメリカの目的を支持すべき平和的責任ある政府の樹立であり、その任務は全面的武装解除による非軍国主義化と民主化という尤もらしい大義名分が謳われていた。かくして、ポツダム宣言・降伏調印に基づき日本人戦犯の逮捕が行なわれた。その罪状は、ポツダム宣言によれば、「吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えられるべし」とあり、如何なる罪状が問われるのか見当及ばざる所であった。

極東国際軍事裁判所が設立され、連合11ヵ国から判事が選任された。昭和21年4月29日、天皇誕生日を以って起訴状が公布、起訴罪状は「平和に対する罪」「人道に対する罪」であった。一見この罪状は尤もにも聞こえる。戦争開始=平和破壊、勿論戦争は平和の破壊である。しかし、戦争に於ける騎士道精神を重んじ定められたハーグ陸戦協定やその他の国際法を含めても戦争行為そのものを犯罪とする概念は無い。当然「平和に対する罪」と言う罪状は無く、「人道に対する罪」と共に日本を裁く根拠を必要とした結果用意されたものである。本来罪を糾弾する法は、既存法令の下法に反する行為を裁くもので、事件終結後糾弾できる法を新たに創り上げ裁く所謂事後法による糾弾は、明らかな国際法違反で騎士道にも反する最も醜い汚辱的行為である。


起訴状の要点


・昭和3年〜昭和20年に至る国内及び対外政策は、一握りの犯罪的軍閥によって支配され、重大なる世界的紛争及び侵略戦争の原因となり、平和愛好諸国民並びに日本国民自身の利益の大なる棄損の原因となった。

・日本の民族的優越性を主張する有害なる思想により、議会制度は侵略の道具として使用され、ドイツのナチス、イタリアのファシスト同質の組織を導入し、経済的財政的資源は大部分戦争目的に動員、日本国民の福祉は阻害させられた。

・被告間に於ける共同謀議は他の侵略国家の参加を得て約定。係る目的は世界の他の部分の支配と搾取及び平和に対する罪、戦争犯罪並びに人道に対する罪を犯し又は犯すことを奨励し、自由の基本原則と人格に対する尊敬を脅威し棄損した。

・米中英アソ豪加仏蘭ニ印フ国並びに他の平和的諸国家に対し国際法・神聖なる条約・義務保障に違背して侵略戦争を計画遂行。該計画は俘虜、一般収容者並びに洋上漂流者を殺害棄傷並びに虐待し、食糧収容所衣服、医療その他の処置を与えず非人道的条件下で強制労役に服させ、且つ恥辱を与え戦争法規の侵犯を企図し実行。

・日本の利益の為被征服国民の人的経済的資源を搾取し公私の財産を略奪し、軍事上必要以上の都市村落の破壊を行い、蹂躙せられたる無力の一般民衆への大量虐殺、陵辱、略奪、拷問その他残虐行為を加えた。

・政府機関に対し陸海軍は威令・制圧を強め国家主義的膨張政策を教え、厳格なる情報統制の下日本国民の世論を精神的に侵略戦争に導き被征服諸国に傀儡政権を樹立し、武力による日本の膨張計画を推進する為ドイツ・イタリアと軍事同盟を締結。以上の起訴要件を正当なる訴追事実として裁判が開始された。


東京裁判に於ける占領軍の欺瞞


本起訴状には重要な連合国の下心と今後の占領政策に一貫する狙いがある。起訴状は悪しき軍閥、国民被害者を強調。軍国主義的指導者と国民とを離反させ国民から軍部への怨念と憎悪を煽り立て、東京裁判への日本国民の感情的支持を取付け、円滑な日本占領政策の推進を図ると言うもので、日本国民、特に知識人は見事にこの工作に嵌まったのである。即ち、君たちに罪は無い、犯人は一部の軍国主義者で君たちは被害者なのだ。

更なる擬餌(Lure)があった。昭和20年秋、連合国は日本の治安維持法・思想犯保護観察法を廃止、釈放された政治犯から「解放軍」として崇められ、財閥解体・農地改革・労働組合法の公布という国際法無視の占領行政を通じてあたかも善意のごとき印象を植付け、米国は東京裁判の検察立証過程に於いて、執拗且つ陰湿に日本国民に対する戦争責罪周知徹底計画を展開する。

開廷第三日(5月6日)、清瀬弁護人から裁判長以下本法廷に立つ資格を欠く者の忌避申立てするが開廷第四日にて却下、第五日目(5月14日)爆弾発言が行なわれた。米国人弁護人ブレイクニーの発言である。「広島・長崎への原爆投下という空前の残虐を犯した国の人間にはこの法廷の被告を裁く資格は無い」というものだった。

この発言は裁判所にとって重大な衝撃であり、裁判所条例で定めた日本語同時通訳が停止し復活することはなかった。日本語通訳が規定どおり放送されれば日本語速記録に留められ後世の知り及ぶところは勿論、日本人傍聴者の耳に入り広く世間へ知らしめたはずである。

ブレイクニー弁護人の発言以下の如く 「国家の行為である戦争の個人責任を問う事は法律的に誤りである。何故ならば、国際法は国家に対して適用されるのであって個人に対してではない。個人による戦争行為という新しい犯罪をこの法廷が裁くのは誤りである。戦争での殺人は罪にならない。それは殺人罪ではない。戦争は合法的だからです。つまり合法的な人殺しなのです。殺人行為の正当化です。例え嫌悪すべき行為でも、犯罪としての責任は問われなかったのです。キッド提督の死が真珠湾爆撃による殺人罪となるならば、我々は広島に原爆を投じた者の名を挙げることができる。投下を計画した参謀長の名も承知している。その国の元首の名前も我々は承知している。彼らは殺人罪を意識していたか。してはいまい。我々もそう思う。それは彼らの戦闘行為が正義で、敵の行為が不正義だからではなく、戦争自体が犯罪ではないからである。何の罪科で、如何なる証拠で、戦争による殺人が違反なのか。原爆を投下した者がいる!この投下を計画し、その実行を命じこれを黙認した者がいる!その者達が裁いているのだ。」

検察側の立証は6月から行なわれ、被告らの共同謀議であったとする一般段階、満州事変、支那事変、対ソ国境紛争(ノモンハン事件)、日独伊三国同盟、対米英戦争の各段階犯罪訴追立証が始まった。


南京事件の捏造


支那事変の段階において寝耳に水のごとき衝撃的証言が飛び出した。今日まで中国・NHK・朝日新聞・テレビ朝日が繰返す反日キャンペーンのシンボルとなった「南京問題」である。

南京問題の証言に呼び出された検察側証人達は、法廷で見て来た様な言いたい放題の嘘言を吐き、新聞報道を通じて一方的に、南京で日本軍による大虐殺事件が発生していたのだという虚構が浸透し、動かし難い史実であるかの如く定着してしまった。しかし、検察側起訴状の段階で一般民衆への大量虐殺なる文言が明言されており、事実無根の事件に大挙して中国側証人が出席する謂れもなく、占領軍との策謀により予め捏造事件の起訴が計画されていたものと思われる。事件が存在したとする立証は証言さえあれば簡単なこと。しかし、無かったとする立証は困難を極め不可能に近い。ましてや捏造の事件、如何に否定の証拠を示せようか。


パール判事


極東国際軍事裁判の判事に唯一の法律家がいた。インドのRadha Binod Pal博士である。パール判事は、米国領フィリピン選出判事と共に連合9ヵ国に遅れ英国植民地インドから選出された。背景は連合国関係諸国以外からの選出により裁判の公平を装うことにあった。しかしパール判事は、他の全ての判事が閉廷期間観光等にうつつをぬかす間、膨大な検察側資料や弁護側資料を調査し、127頁に及ぶ所謂パール判決書を作成し、唯一人日本人被告の無罪を主張した。法廷ではこの主張に涙を流し聞入る日本人が大勢いたという。


占領政策の実行


検察側立証は8ヶ月に渡り行なわれた。その後昭和22年2月より昭和23年1月まで弁護側反駁立証が開始される。足掛け11ヶ月の弁護側反駁立証期間を見ると、一見十分な期間が与えられ公平な審理が行なわれているように見受けられる。しかし、8ヶ月に渡る検察側立証期間中は一切の弁護側反駁が封じ込められ、検察側立証が弁護側の反駁なしに延々と続けられる状況は、その報道を無批判に受け入れざるを得ない日本人に対し、強固なる先入観を移植することに絶大なる効果を発揮した。

この状況は、占領政策の目的である非軍国主義化・民主化の一環として、占領軍が意図的に策謀したもので、強制的策謀の下出でる情報に対し、無抵抗に信頼させ傍受させる手段が、新聞・放送及び一切の情報・言論機関に加えられた検閲であった。日本の全ての報道機関に実施されたこの事前検閲制度は、綿密な準備を経て昭和20年9月、占領開始と同時に実施。事態の進展に伴い対象項目も増加、特に極東国際軍事裁判に対する一切の批判は全てにおいて禁止対象とされていた。

しかも弁護側反駁立証においては多くの証拠資料が却下されている。却下が思慮され未提出に終った証拠資料を含めると総頁数5500頁という膨大な資料であり、清瀬弁護人の所見では提出証拠資料の八割が却下となったという。ウエッブ裁判長は、反駁立証の各段階において日本側弁護資料を、自己弁護であると拒否し、日本と連合国側との関係資料などに至ると、ことごとく本裁判は連合国を裁く裁判ではない。日本を裁く裁判であるとして全てを却下した。

極東国際軍事裁判は地球史上類例の無い汚辱に満ちた最も醜い裁判劇である。この裁判の結果日本人の多くは洗脳され、未だその影響は消えるどころか一部の所謂進歩的知識人達は神がかりにも似た異常さに磨きをかけている。今日日本中に蔓延っている日教組も、非軍国主義化の一環として日本弱体化の為、日本悪者説所謂自虐史観の効果的増殖と再軍備防止の為、最も効果的な左翼的教職員組織を活用するためマッカーサーが承認したものである。


日本国民への影響


所謂東京裁判の結果、同時に実施された徹底的報道言論統制によって、日本国民は自国が侵略国家であるという認識を刷込まされた。東京裁判に於ける検察側立証を一切の反論批判が許されないまま、一般国民は善良であった、悪しきは軍部であると洗脳されたのである。進歩的知識人は、その多くが占領軍により釈放された政治犯が中枢を成し、支援組織と共にその歪んだ教養と有識者の仮面を被り、占領政策を擁護し、教育機関に、政治政党に、報道機関にとあらゆる方面に浸透し一般国民への洗脳に寄与してきた。この結果、侵略国家日本、非人道国家日本、靖国参拝批判、自衛隊違憲論が声高に叫ばれ、戦前の歴史を否定断絶し、日本人の誇りを捨て、社会の荒廃の一途を辿ったのである。


日本を敬愛する人々の声 
[日本の日本人の真の姿を現す外国からの言葉と所業]


・国内法の源泉である憲法は自身の手で書くべきこと。自国は自身の力で守るべきこと。国家のため殉じた英霊を祭祀すべきこと。自国の文化歴史を正しく子孫に教育し伝承されるべきこと。(パール博士)

・「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」広島原爆慰霊碑の碑文である。日本人がどんな過ちを行なったと言うのか、この過ちが太平洋戦争を意味するのなら、日本の責任ではない。戦争の種は、西欧諸国の東洋侵略のため蒔いたものである。アメリカはABCD包囲陣を作り、日本を経済封鎖し、石油禁輸まで行なって挑発した上、ハルノートを突きつけてきた。アメリカこそ開戦の責任者である。(パール博士)

・広島原爆慰霊碑碑文を見たパール判事は、日本人の魂がここまで卑屈化されたしまった。東京裁判の影響、その被害たるや原爆被害より甚大であると嘆き、日本の行く末を案じ将来を見守るため、生前自身の遺骨の日本への分骨を遺し、京都東山護国神社にパール博士顕彰碑と共に祀られている。

・日本の戦後教育のごとき反日教育が生むものは、祖先への軽蔑と他人を憎悪する卑しさだけであり、決して愛する心を育まない。現代日本の青少年による凄惨な事件の数々や、教育現場の荒廃はこうした戦後教育の悲しい結末である。(蔡焜燦)

・十二月八日。日本のおかげでアジアの諸国は全て独立した。日本というお母さんは、難産して母体を損なったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話が出来るのは一体誰のおかげであるのか、それは身を殺して仁を成した日本というお母さんがあったためである。この重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大な決心をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない。(タイ元首相)

・太陽の光がこの地上を照らす限り、月の光がこの大地を潤すかぎり、夜空に星が輝くかぎり、インド国民は日本国民への恩は決して忘れない。(インド最高裁弁護士) ・我々インド国民軍将兵は、インドを開放するために共に戦った戦友としてインパール、コヒマの戦場に散華した日本帝国陸軍将兵に対して最も深甚なる敬意を表します。インド国民は大儀のために生命を捧げた勇敢な日本将兵に対する恩義を末代に至るまで決して忘れません。我々はこの勇士たちの霊を慰めご冥福をお祈り申し上げます。(インド国民軍大尉)

中国における日本軍は、上海攻略・南京攻略の折、食糧事情の逼迫した中国人民に対し、限りある食糧にも拘らず調達に奔走し、食糧配給を行なったと聞く。また俘虜として日本国内に拘留された英国人捕虜は、日本軍の騎士道を重んじた規律ある扱いに感謝の意を伝えたとも聞く。これは第一次大戦時のドイツ軍俘虜からも同様の意が報告されている。

一方台湾では、台湾住民の兵役志願が認められると、初年度千人の募集に40万人が志願し、翌年は60万人と増加。先住民高砂族の多くは血書嘆願により日本軍に志願し、南方の戦場ではジャングル戦に従事し、斥候と食料調達に出た折、日本の戦友に届けるまではと食糧に手をつけず餓死していたところを発見されている。
また、高砂義勇隊の中村(台湾名スニヨン)一等兵は、1974年にインドネシアのジャングルで発見されるまで任務遂行に努め、天皇から預かったと言う武器は見事に手入れされ、毎朝欠かさず皇居に向かって遥拝し、日本国最後の皇軍兵士と言われている。一方台南の「鎮安堂・飛虎将軍廟」では、航空戦で敵機に体当たりを敢行し、壮絶な戦死を遂げた日本海軍操縦士杉浦茂峰兵曹長他二名が飛虎将軍として祀られ、今日に至るも延々と毎朝「君が代」が奏上されている。何ゆえ高砂族兵士や台湾民族がこのような行動を執るのか、想像によるだけでも明白である。善き処遇には至上の行いを以って答える台湾民族、中国の一部であろう筈は無い。


日本人の気高き民度


明治11年に東京〜北海道間を旅行した英国婦人Isabella L Birdは、その著書で日本の風土・人間模様を報告している。この中で日本人の民度を推量る出来事が幾つも記されている。東北地方のある田舎の様子で、日本人でもこんな所があったのかと驚くほどの貧しい暮らしがあった。男は褌一丁、女も上半身衣類を着けず生活していた。著者曰く「車夫や馬子も物静かで親切で礼儀正しく、落とした革帯一つ拾うのに一里の道を引き返してくれた。それでも決してチップを受け取らないのだ。どんなに貧しくても決してお金を盗んだり過当な料金を要求することは無かった」と記している。

日本のコピー製品を堂々と造り、日本企業の特許申請も中国企業に漏洩され、台湾大地震では日本の金融機関に義援金募集口座まで作る中国。インド洋大津波では中国を上回る日本の義援金に面子を潰したと怒り、挙句は日本が太平洋に沈めば良かった、インドはこれでGDPが中国と並ぶ等とネットへ書き込む中国人民。南京虐殺記念館や各地の抗日記念館で、自らの大虐殺写真を日本の犯行と偽装し、嘘八百の資料・証言を並べ立て日本非難を繰り返す中国。自国民他国民を問わず敵対した死者に対しては、墓を暴き死後をも鞭打ち罰し、武士道騎士道の欠片も持合わせない中国・韓国。太陽が地上を照らすかぎり中国人民の民度が日本人に並ぶことは決して無い。

大東亜戦争までの日本人は世界で最も立派な民族であった。その根底にあったものは、一般民衆にまで及ぶ武士道の精神即ち滅私奉公の精神である。日本人は皆武士道の国の民、己を犠牲とし世のため人のため仁を成したのである。その更なる心の奥底には、勤勉・礼節・協調・友愛・恥の文化を忍ばせていたことである。台湾では日本のこのような精神を「日本精神」(リップンチェンシン)と今に呼んでいる。


結び


歴史は続いている。人は死すとも切離すことの出来ないことそれが歴史である。今日の全ての社会環境、即ち生活・産業・労働の基盤となる政治行政を含む全てのシステムと施設、そして今日に至る経済的発展と豊かな生活水準は一朝一夕に昨日誕生したものではない。脈々と続いてきた先人の努力を積み重ね、今日に至る歴史が作られてきたからである。この歴史を切り捨て断絶したとき今日の日本人は存在できない。言い換えれば、過去の一時期である戦時を不名誉な時代として断絶せしめれば、歴史が途切れることは勿論、類例の無い不幸を背負うこととなる。

その不幸とは何か、それは日本人としての誇りの喪失である。靖国参拝を糾弾し、非人道的国家・侵略国家と叫ぶ政治家や日本国民、その心中に日本人の誇りが存在するだろうか。不名誉な悪しき国家であったとして否定してきた時代の歴史が、学校で学び報道で知らされたことが、もし真実ではなかったとしたらどうだろう。過去裁かれた非人道的行為が捏造であったり全く逆であったならどうだろう。例え永き日本の歴史の僅かな一部分であったとしても歪曲された歴史が外力によって組み込まれ、信じさせられていたならば地球上唯一の不幸な国民である。

不幸を知らずして偽りの歴史に漫然と暮らすか、不幸を知る英知を持ち、誇りを持って生きるかは個々人の自覚にある。しかしその生き方は大きく異なるであろう。日本を今日の荒廃から救う第一歩は、先人の歩んだ日本の歴史に誇りを感じ、感謝の気持ちを持つことから始まる。そして日本人伝統の精神を呼覚ますことにある。

ここに記した歴史的経緯は真実である。雑駁ではあるが大筋の歴史的背景は判別することだろう。その結果、日本人として自信と誇りを感じてくれれば望外の幸せである。以後の見聞研究はそれぞれの道に委ねることとする。おわり(平成17年1月21日)


追記


かつて終戦間近の頃、海軍には回天と桜花という特攻兵器があった。そして陸海軍はあらゆる航空機を特別攻撃隊に動員した。回天は別名「人間魚雷」と言い、爆薬を積載した大型魚雷で、搭乗員の操縦によって敵艦に体当たりする兵器である。一方、桜花は回天同様爆薬を積載した一人乗りロケットで、海軍の一式(皇紀2601年)陸上攻撃機に抱かれ、攻撃目標付近上空で離脱し体当たりする兵器である。

陸海軍の航空機による特攻は、昭和19年10月、海軍のフィリピンマバラカット基地から始まり、翌年には九州各地を発進基地に陸海軍の沖縄方面への特攻が始まった。通常戦闘と異なり特攻は自らを肉弾と化し、再び日本の地を踏むことは無い。隊員たちは何を思い出撃したのだろうか、きっと親兄弟や故郷を想い日本の生残りを願い出撃したのであろう。桜花という名に「日本のため桜の花のように美しく散ってくる」と特攻隊員が語りかけているようだ。

想像して欲しい。今は戦時である。今まさに特攻兵器に搭乗しようとしている。この時君は何を想い何を願い出撃するだろうか、是非とも一度真剣に考えてみて欲しい。

今に暮らす人々は、その心のその犠牲の上に生かされているのだ。感謝の心忘れずに。

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