質問:
満州事変は、日本がおこなった一方的な侵略戦争だったのでしょうか?
回答:
満州事変について、ある中学社会科教科書は次のように書いています。
1927年、中国では蒋介石の率いる中国国民党が、南京に国民政府を樹立し、中国の統一を進めました。満州の日本権益を確保するため、満州を中国から分離することを主張していた軍部(関東軍)は、1931年9月18日、奉天(現在のシェンヤン)郊外の柳条湖で満鉄の線路を爆破し、それを機に軍事行動を開始しました(満州事変)。満州の主要部を占領した関東軍は、1932年3月、清朝最後の皇帝溥儀を元首とする満州国を建設させ、実質的に支配するようになりました。当時の犬養内閣は、満州国の承認に反対する態度をとりましたが、1932年5月15日、犬養首相は、海軍将校の一団により、首相官邸で暗殺されました(五・一五事件)。これにより、政党政治はその幕を閉じました。いっぽう、国際連盟は満州事変の調査を行い、1933年、総会で、満州国承認の取り消しと日本軍の撤兵を決議しました。これに対し、日本は国際連盟を脱退しました。
【東京書籍】
教科書の見出しには、「日本の中国侵略」とありますから、満州事変は、中国侵略の第一歩と位置づけていると理解されます。また、上の記述は、次のように読むことができるでしょう。
中国政府は国内を統一しようと努力していた。それに対し、何としてでも満州を奪いたかった日本の軍部は、勝手に事件をおこして軍隊をうごかし、満州全体を占領した。そして、自分たちが自由にあやつることのできる満州国を強引につくってしまった。さらに軍部は、内閣をおどして満州国を認めさせた。国際連盟は、そのような日本の侵略行為を許さなかった。しかし、満州をわがものにしたかった日本は、国際連盟のいうことを聞くどころか尻をまくって国際連盟を脱退してしまった。善良な中国から国土の一部を奪い取り世界じゅうから非難された国、それが日本であった。
たしかに、満州で日本のとった一連の行動が国際社会に疑念を抱かせるものであったことは事実です。しかし、だからといって満州事変は、「非は日本に百パーセントあって中国にはまったくなかった」と言い切ることのできるような歴史事象だったのでしょうか。
満州をふくむ当時の中国は、イギリス、アメリカ、ソ連、フランスそれに日本などが中国政府との交渉の結果として得ている利権を守ろうとし、またはその利権を少しでも増やそうとして、互いに牽制しあっている場所でした。
そもそも日本軍が満州にいたのはなぜでしょうか。日本が満州を侵略して、軍隊を駐留させていたのでしょうか。いいえ、そうではありません。
日本は、日露戦争(1904〜5年)が終わった後、ロシアが中国(清国)から借りていた遼東半島、ロシアが満州で得ていた鉄道経営の権利をロシアに代わって日本が借りる条約を中国とのあいだに結んでいました。鉄道を守る日本の軍隊(関東軍)が鉄道の敷かれている周辺に駐留するようになったのも、この条約に基づいてのことでした。
日露戦争の前後から、中国のなかに、自分たちの国を外国の思うがままにされている清朝への不満が高まってきました。そして1911年、清朝は倒され、そのあとに中(華民)国政府ができました。中国政府は、清朝がこれまで外国と結んでいた条約は無効であると一方的に宣言しました。
それは、ちょうど賃貸契約を結んで部屋を借りている間借り人たち(日本などの列国)に対して、大家(中国)が「親父が死んで、私があなたたちに貸している部屋の管理責任者になりました。親父があなたたちと結んだ賃貸契約は私にとって不利なので、無効とします。すぐに部屋を明け渡してほしい」というのと同じです。
無効宣言をした中国政府は、関税自主権・治外法権を回復する運動、外国に貸している土地や利権を回収する運動をはじめました。その運動は外交交渉によるものではなく、一方的なものでした。自分にとって不利な条約は破棄してもかまわないという中国式のやりかたは、江戸幕府が西洋列国と結んだ日本にとって不利な条約を幕府が倒れた後の明治政府が引き継ぎ50年以上も誠実な外交交渉をつづけてこれを解消した日本式のやりかたとは対照的です。
1917年、ロシアに社会主義革命が起こり、社会主義政権が生まれました。1920年、ソ連コミンテルンの指導をうけた中国に、中国共産党が組織されました。中国政府のなかにもぐりこんだ共産党員は、中国民衆の外国人憎しの感情をあおり、過激な国権回復運動を陰に日なたに支援しました。そのためもあって、中国本土に居留している大勢の日本民間人が中国兵から暴行をうけ虐殺される南京事件(1927年)や済南事件(1928年)などが起こりました。
排日運動は、日本人がたくさん居住している満州にもおよびました。満州で力をもっていた軍閥の張作霖は、日本人が中国政府との条約や契約で認められていた居住権や営業権を侵害する政策をすすめました。それに対して、日本政府がにえきらない対応をとりつづけたので、日本のマスコミは“軟弱外交”とこれを責めました。
日本が満州にこだわったのには理由があります。
1929年、アメリカ発の世界恐慌が日本をおそいました。経済的に生きのびるためにアメリカ、イギリス、ソ連はそれぞれブロック経済圏をつくり、圏外からの輸入品をしめ出しました。外国と貿易をしなければ生きていけない日本は、苦境に立たされました。日本は、広い満州に産業をおこし経済的な自立をはかろうと考えました。これが理由の一つです。
日露戦争で日本に破れたロシアは、1917年、社会主義国ソ連に生まれ変わりました。社会主義という新しい理想を世界にひろめる目的をもつソ連は、満州の隣の蒙古に勢力をのばしてきました。中国にも影響力をもちはじめたことは先に述べたとおりです。 ソ連は、日本国民の精神的な支えとなっている天皇を倒して日本を自分たちと同じ社会主義国家にしようと工作をしていました。日露戦争の恨みを日本に対していだいているソ連は、日本がもっとも警戒しなければならない国でした。それゆえ、満州をもってソ連から日本を守る生命線にしようという考え方がありました。これが、満州にこだわ
ったもう一つの理由です。
日本政府の“軟弱外交”にいらだった関東軍は、1928年(昭和3)、条約に違反した政策をやめない張作霖を謀殺してしまいました。ところが、張作霖のあとを継いだ息子の張学良は、排日政策をいっそう強め、日本人に土地を貸すことを禁止する法律をつくりました。
1931年(昭和6)9月、関東軍は、奉天近くの柳条湖で満州鉄道の線路を爆破しました。そしてそれを中国軍のせいにし、張学良軍を攻めて奉天から追い出し、満州のほぼ全域を支配下に置いてしまいました。日本政府の諒解を得ないままにとった関東軍の軍事行動でした。
しかし、中国政府や張学良の排日政策に腹をたてていた満州居留の日本人や日本の世論は、関東軍の行動を支持しました。日本政府は、軍部や世論の勢いに押されて、関東軍のとった行動を認めました。
同年12月、国際連盟は、満州において日本がとった行動に疑念をいだき、イギリスのリットン卿を団長とする調査団の派遣を決定しました。その間にも、関東軍は日本政府の不拡大方針を無視した工作を続けました。そして、1932年(昭和7)3月、満州を中国から切り離して独立させ、清国皇帝の血筋をひく溥儀を執政とする満州国をつくりました。
9月15日、日本政府は、満州国を正式に承認しました。その2週間後、リットン調査団は、報告書を日本と中国の外務当局に送りました。その報告書の主な内容は次の通りでした。
(1)満州事変は、日本と中国が戦争をしたとか、日本が中国を侵略したとかいう簡単な事件ではない。
(2)日本軍は過去の条約で認められている範囲内に引き上げよ。
(3)満州における名目的な主権は中国に残すが、大幅な自治権を満州に与えよ。
(4)自治政府は、外国人顧問を任命すること。顧問として日本人が十分な割合を占めるようにせよ。
(5)治安は、外国人教官の協力を得た特別憲兵によって守られること。
(6)事件解決後、中国は反日政策をやめること。
(1)から(6)までを読むと、リットン報告書が日本を責めているだけではないことに気づくでしょう。
確かに、日本軍がみずからの謀略をきっかけに戦争を始めたことは事実です。その日本軍の行動を追認した日本政府が責められるのは仕方がありません。しかし、リットン報告書は、日本政府に対して「軍隊を鉄道付属地内に引き上げよ」というとともに、中国政府に対して「反日政策をやめよ」といっています。しかも、満州を中国にすぐに返せといわず、中国の支配から離れた自治政府を満州につくれと勧めています。
なぜリットン調査団は、このような、ちょっとみるとどっちつかずの勧告をしたのでしょうか。
満州はもともと漢民族(中国人)の土地ではなく、満州族(清朝皇帝の出身種族)の土地です。日本は、その満州に侵入してきたロシアと戦いました。日露戦争(1904〜5年)です。ロシアに勝った日本は、満州の南半分で鉄道(満鉄)を経営する権利とその鉄道を守る軍隊を鉄道周辺に置く権利を清国政府から得ました。日本からたくさんの人と資金が入った結果、満州の生活環境がたいへんよくなりました。よりよい生活をもとめた何百万という中国人が、生活環境の悪い中国本土から移ってきました。そして満州の人口の圧倒的多数を中国人が占めるようになりました。
満州でもっとも大きな力をもっていたのは、軍閥の張作霖張学良父子でした。その張作霖と張学良が極端な排日政策をとり日本の権益を犯していたこと、満州に移ってきた中国人が日本人の生命と財産をおびやかしていたことを、リットン調査団は知っていました。もし中国本土に居留している西洋列国の民間人が、南京事件や済南事件のような不当な暴力行為の犠牲になって何百人も中国軍に殺されたら、たちまち中国に宣戦布告をして戦争を始めていたでしょう。しかし、日本政府はそこまで強硬な態度をとらずにきました。
こういう事情を考えにいれて、リットン調査団は、「満州事変は、日本と中国が戦争をしたとか、日本が中国を侵略したとかいう簡単な事件ではない」と述べているのです。
国際連盟の総会は、12月からリットン報告書に基づいて審議をはじめました。満州市場に自分も参入したいと思っていたアメリカは別として、イギリスをはしけめとする西洋列国は、どちらかというと日本に対して同情的でした。
ところが、西洋列国の日本に対する同情心を警戒心に変えることが起こりました。 翌1932年の1月1日、満州に隣接する中国本土の山海関で、日本軍が中国軍に戦闘をしかけたのです。
どうして日本軍軍が中国本土にいたのでしょうか。それは、義和団事件(1900年)後、清国政府ととりかわした議定書にもとずいて駐留していたのです。日本政府は、日本軍の勝手な行動をなんとか押し止どめました。
この山海関事件は、「日本は、中国本土にわれわれがもつ利権をもねらっているのではないか」という疑心を西洋列国に抱かせることになりました。2月15日、国際連盟委員会は次の勧告案を日本と中国にしめしました。
(1)満州の主権は中国に属する。
(2)現在の満州国を承認しない。満州は国際管理のもとにおく。
これは、日本の立場をかなり認めていたリットン報告書とくらべて、厳しい内容のものでした。この勧告案の内容を知った軍部は、マスコミをあおって「満州国を承認しないような国際連盟など日本は脱退すべきである」という世論をつくろうとしました。
軍部や世論の圧力をうけた日本政府は、「満州国の承認という日本の主張が認められないのならは国際連盟の脱退もやむをえない」との決心をしました。
2月24日、国際連盟の総会が開かれました。まず、中国代表の顔恵慶が立って、「日本が満州でとった行動は、パリ条約、九カ国条約に違反する」と主張しました。続いて立った日本代表の松岡洋右は、満州を国際管理のもとに置くことに反対してこういいました。「そのような国際管理がパナマ海峡地帯に行われる場合、アメリカ国民は同意できるか。エジプトに行われる場合、イギリス国民は同意できるか」
パナマやエジプトは、アメリカやイギリスが謀略をもちいて自分たちの植民地にしてしまった国です。「アメリカやイギリスがやったと似たようなことを日本がやって何が悪い」と、松岡代表はいいたかったのでしょう。
つづいてベネズエラ、カナダ、リトアニア代表が見解を述べました。その後、勧告書の採決に入りました。採決の結果は、賛成44、反対1(日本)、棄権1(シャム)でした。
松岡代表は満場の注目を浴びながら、総会会場を退場しました。こうして日本は、国際連盟を脱退しました。帰国した松岡は、国民から「よくやった」と凱旋将軍のように迎えられました。しかし、以後の日本は、西洋列国の警戒心にさらされて苦難の道をあゆむようになりました。
謀略で満州を支配下においた日本の行動は、それだけをとりあげてみると決して好ましいものではありません。しかし、いろいろなしがらみの中で日本のとった行動が、当時の国際社会の行動水準からみて「特に低かった」、というものではありませんでした。
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