“♪守るも攻むるも鋼鉄の 浮かべる城ぞ頼みなる
浮かべるその城日の本の 皇国の四方を守るべし
まがねのその艦日の本に 仇なす国を攻めよかし♪”
この歌を知っている人いますか?歌詞は知らなくってもメロディーを聴けば誰でも分かる、実はこれ軍艦マーチなんです。“軍艦マーチ”??という人も、パチンコ屋さんで威勢良くかかっている曲って言えば、分かってもらえるんではないでしょうか。
このような説明をしなければならなくなってしまったこの曲は、日本が戦争に負けるまでは海軍の誇りであった名曲でした。しかし、今ではなんだか情けない役割にされています。ところが驚くなかれ、この曲が今でも誇りとともに演奏される名誉ある存在でいられるのは、遠くミャンマーの“国軍記念日”という晴れ舞台なのです。
ミャンマーでは3月27日の国軍記念日になると、全国のミャンマー国軍が首都ヤンゴンに集まって盛大なパレードを繰り広げるのですが、なんと!このパレードはいきなり日本のこの“軍艦マーチ”から演奏し始めるのです。続いてミャンマーの軍楽隊は“歩兵の本領”“愛馬進軍歌”など昔の日本の歌を次々と演奏して、パレードを続けていきます。これはいったいどういうことでしょう?
実はミャンマー(旧ビルマ、1989年に国名を変更。それ以前を記す場合はビルマと表記。)は「日本人より日本を愛する国」といわれるほどの親日国家なのです。どうしてかって?ここミャンマーでは政府の高官からジャーナリストに至るまで、こう言います。「ミャンマーが今日あるのは、日本のおかげです。日本のおかげで、英国の圧制を逃れ、独立をすることができた。われわれは深く日本に感謝しているのです。」
お世辞…?!でも何も自分たちの国の記念日にお世辞で“軍艦マーチ”はないでしょう。ということで、国際理解のため、私たち日本人もここでミャンマーについて勉強しておきましょう。
ビルマは19世紀に三度にわたってイギリスの攻撃を受け、ついに1886年にイギリスの植民地とされ、そのとき既にイギリス領であったインドの一州に組み込まれてしまいました。ビルマの国王夫妻はイギリス領スリランカに流刑され、その地で死亡。王子は処刑され、王女はイギリス軍の士官の従卒に与えられてしまいます。
その後の悲劇をバー・モウ元首相はこう書いています。「外国人による搾取は上層から下層まで、あらゆる方面で暴虐さを加えていた。巨大イギリス企業は上等の部分をすべて独占し、インド人と中国人の商人たちがそれに続いて中級の部分をほとんど手に入れてしまっていた」(バー・モウ『ビルマの夜明け』)
そしてビルマ人はというとチーク材の切り出しなどの重労働にこきつかわれました。現在もミャンマーでは先端の尖っていない鎌や包丁が売られていますが、これは植民地時代、イギリス人に抵抗する武器にならないようにした名残だといいます。こんな悲惨な状況を一転させたのが日本軍の進攻、また日本によるビルマ独立志士たちの育成でした。
話は今から100年前、日本で言えば明治時代にあたります。日本は膨張を続けて南下を推し進めるロシアを相手に、国を挙げて戦いをしました。日露戦争(1904〜05)です。
当時、アジアの国々はほとんどがヨーロッパの白人諸国の支配下に置かれ、植民地とされていました。先に紹介したようにビルマも例外ではありません。誰もが、アジアの小国、日本の敗戦を予想していましたが、それを裏切って世界最強の軍事大国ロシアに陸と海で勝利をおさめました。有色人種であるアジアの国が白人をやっつけてしまった知らせを聞いた他の有色人種たちは歓喜し、こぞって日本に学び始めます。
その中の一人にビルマの僧オッタマがいました。オッタマ僧正は抗英独立運動をおこなって投獄されたこともある人物で、日本にやってきたのは1907年のことでした。彼は3年間日本に滞在して取材した内容を『日本』という本にまとめ、ビルマで発刊しています。その中で「日本の興隆と戦勝の原因は明治天皇を中心にして青年が団結して起ったからである。われわれも仏陀の教えを中心に青年が団結、決起すれば、必ず独立を勝ち取ることができる。」「長年のイギリスの桎梏からのがれるには、日本にたよる以外に道はない。」と主張したのです。その後もオッタマは、ビルマの完全自治を要求する運動を起こし、イギリス政府によって投獄されるなど、何度も投獄、出獄を繰り返し、ついに1939年に獄死してしまいます。残念ながら日本と協力して立ち上がったビルマ青年の活躍を見ることは出来ませんでしたが、その反イギリス精神は独立の志士たちに受け継がれていきました。
この若き志士たちこそ、のちに「ビルマ建国の父」と呼ばれるオン・サンたちタキン党の青年たちでした。オン・サンとは当時の表記ですが、現在ミャンマーで活躍しているアウン・サン・ス−・チー女史のお父さんに当たる人です。
そして1930年代後半に、彼らタキン党を中心に反イギリス運動は国民的盛り上がりを見せますが、イギリスは独立運動の大弾圧を始め、志士たちの多くが逮捕、投獄されてしまいます。これを逃れたオン・サンは独立蜂起のため日本への亡命を決意するのです。
一方、同じ頃イギリス・アメリカは日本への敵視政策を取り、日本と敵対関係にあった蒋介石軍に多大な軍用物資の援助をおこなっていました。それを運ぶ道程がイギリス領ビルマを通って中国に入るビルマルート、いわゆる“援蒋ルート”でした。早く蒋介石との戦争状態を終わらせたい日本にとっては、このビルマルートを遮断することが不可欠の問題となってきたのです。
そこで日本はビルマ青年たちを支援し、イギリス勢力を追放するため、ビルマ独立を達成しようとしたのです。
1940年、日本陸軍は鈴木敬司大佐をビルマに派遣、オン・サンらを救出し、大佐の故郷である浜松に亡命させます。そして、鈴木敬司大佐を機関長としたビルマ独立のための「南機関」が誕生するのです。
「南機関」の活動計画は、独立運動の中核となるビルマ人志士30人を、ひそかに日本に脱出させ、彼らに武装蜂起に必要な軍事教育をすること。その教育訓練の終わったビルマ人志士を、再びビルマに潜入させ、反イギリス運動を起こし、ビルマ独立政府の樹立を宣言すること。蒋介石を支援するビルマルートを遮断することにありました。
このときの彼らこそ後にビルマの独立と建国の英雄として仰がれる「ビルマ30人志士」になるのです。
1941(昭和16)年、大東亜戦争の開戦とともに、タイのバンコクで30人志士を中心に「ビルマ独立義勇軍」が結成されました。日本軍による厳しい訓練を受けた青年たちは独立ビルマを象徴する孔雀の旗を掲げて、ビルマ独立を誓い合ったのです。
義勇軍の司令官には青年たちが心から慕う鈴木敬司大佐が就任しましたが、オン・サンの提案で鈴木大佐は純白のビルマの民族服=ロンジー姿で白馬にまたがり、ビルマ民衆の前に登場します。これはビルマの伝説で、イギリスに滅ぼされたアラウンパヤー王朝最後の王子が、いつかかならずボモージョ(雷帝のこと)となって、白馬にまたがり、東の方角からやってくる。そしてイギリスの支配からビルマを解放してくれるというボモージョ伝説を演出したものでした
もちろんビルマ民衆は歓喜して彼ら義勇軍を迎え、その協力もあって3ヶ月で首都ラングーンを陥落させ、イギリス軍を敗走させてしまいます。そして日本の軍政を経た後の1943年8月1日、ビルマはついに独立を宣言したのです。
そのとき外相に就任したウー・ヌーは次のように演説しました。「歴史は、高い理想主義と、目的の高潔さに動かされたある国が、抑圧された民衆の解放と福祉のためにのみ生命と財産を犠牲にした例をひとつくらい見るべきだ。そして日本は人類の歴史上、初めてこの歴史的役割を果たすべく運命づけられているかに見える。」
しかし日本と同盟を結んで米・英に宣戦布告したビルマにも、日本の敗戦が色濃くなってきた頃、日本と離れてイギリスと結ぶべきだとの声が高まってきます。日本と一緒に敗戦国になって、再びイギリスに占領されるのを怖れたのです。それまで日本とともに闘ってきた30人志士たちも動揺します。バー・モウやボー・ヤン・ナインは日本を裏切らず、ミン・オンという青年にいたっては日本を裏切ることは恩義に欠けるとして自決してしまいました。
けれどもオン・サンは「反日に立つのは、ビルマを生き残らせるための唯一の方法」であるとバー・モウに手紙を書き、1945(昭和20)年3月、ついに日本に反旗をひるがえすのです。この決断によって、日本軍はビルマから撤退し、代わりにイギリス軍が戻ってきました。
再び植民地支配を目指すイギリスに対してオン・サンは日本軍に育てられた10万人の義勇軍を率いて、イギリスと独立交渉をします。もう昔の従順なビルマ人ではなかったのです。
そしてついに1948年1月4日、イギリスのアトリー内閣が独立を承認し、ビルマはようやく独立を達成したのです。しかしこの席にオン・サンはいませんでした。この5ヶ月前に政敵の銃弾に倒れていたからです。
その20年ののち、バー・モウは『ビルマの夜明け』と言う著書を発表し、この本がイギリスでも出版されることになりました。このとき「ロンドンタイムス図書週報」1968年5月23日号ではこの本について次のように紹介しています。「ビルマを長い植民地支配から解放した者は誰か。それはイギリスでは1948年、アトリー首相の労働党内閣だということになっている。しかし、バー・モウ博士はこの本の中で全く別の歴史と事実を紹介し、日本が第二次世界大戦で果たした役割を公平に評価している」とし、序文の一部を引用しています。
それは「真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった」というバー・モウの歴史観を現した一文でした。
日本では決して語られることのない歴史が、ここミャンマーではしっかりと語り継がれています。彼らが植民地支配を脱する契機となった国軍記念日のパレードが、日本の“軍艦マーチ”で始まるなんて、ちょっと感動的ではないですか?
そしてこうした両国の友好の歴史を知ったことで、ミャンマーに親しみを感じるきっかけになったら、歴史を学ぶ意味が大いにあると思いませんか?
●もっと詳しく知りたい人への推薦図書
・『最新東洋事情(1995年版)』深田祐介/文芸春秋
・『世界から見た大東亜戦争』名越二荒之助編/展転社
・『アジアに生きる大東亜戦争』ASEANセンター編/展転社
・『アジア独立への道』田中正明/展転社
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