ゾウの「はな子」さんを知っていますか?
終戦後、焼け野原になった日本のこどもたちを慰めようと、タイの政府 使節団が、昭和24年に贈ったメスのゾウのことで、平成18年(2006)現在も、東京都三鷹市の井の頭動物園で元気にしてい
ます。
戦争中には、動物園にいる猛獣が、空襲などによって逃げ出すおそれが あり、日本中の多くの動物園でゾウやライオンが処分されてしまいました。ゾウは頭が良く、エサに毒が入っていることをすぐに察してしまい、それを食べませんでした。ゾウたちは、何か芸をすればエサがもら
えると思い、弱った身体で必死に芸をするのです。飼育員たちは、その様子を見て泣きながら餓死させざるをえなかった、という話は「かわいそうなぞう」という童話になって、ずっと語り継がれています。
そんな経緯もあって、タイから、はるばるやってきた「はな子」、それに続いてインドから贈られたインド象の「インディラ」は、日本のこどもたちを大いに喜ばせ、移動動物園として、各地を巡回したほどでした。
ところで、日本のこどもたちの念願だったゾウの来日は、どのように決まったのでしょう。
先年、タイの使節団は、タイ政府が第二次大戦中に日本政府に貸し出したお金の返済交渉に来ていました。彼らが降り立った日本は、国中がとても貧しく、国民は敗戦のショックに打ちひしがれています。使節団の
団員は、口々に「こんな気の毒な日本を見ていられるか」と言い、借金を大幅に棒引きし、さらに、ゾウを日本にプレゼントしようということになったのです。
現在もタイ国民の日本への好感度は89%に上り(2002年11月、日本外務省発表「日本に関するASEAN(6カ国)世論 調査」より)、大変な親日国のひとつです。いっぽう、タイという国について、わたしたち日本人はどれだけ知っていますか。
2007年は、日本タイ修好120年記念として、さまざまな催しが企画されています。 もちろん、それ以前から、日本とタイには友好の歴史がありました。17世紀には、山田長政(1590〜1630)が600名の日本人義勇兵を率いてアユタヤ王朝の親衛隊長として仕えており、アユタヤには日本人町も出来ていました。
しかし、18世紀からイギリス、フランス、オランダなどの列強がアジア諸国を植民地化してゆき、とうとうアジアにおける独立国は日本とタイだけという有様となりました。タイは、周囲を、イギリスの植民地マレー、ビルマと、フランスの植民地カンボジア、ベトナム、ラオスに挟まれています。このような困難な境遇にあって、領土の一部をイギリス・フランスに割譲しながら、なんとか独立を保っていたのです。
タイは、アジアのもうひとつの独立国日本が、じりじりと追いつめられていくのを、どのような思いで見つめていたのでしょうか。
1930年代、満州国を真っ先に承認したのはタイ政府でした。満州問題で、日本が国際連盟で孤立したとき、対日非難投票で唯一の棄権をし、世界を驚かせたのもタイ国です。
また、いわゆるABCD包囲網で、日本が軍事物資の不足に悩んでいるときに、タイで生産される生ゴムと綿の全部を日本に供給し、多額の借款も供与してくれました。
当時のアジアで、欧米列強に植民地化されずに生き残るためには、日本を助け、ともに立ち上がることこそが唯一の道だと考えていたのです。
昭和16年12月8日、日本は対米英開戦に踏み切りました。まもなく、当時のピブン内閣は、「日タイ同盟条約」を締結し、同時に、中国国民政府の蒋介石総統に向けて、「同じアジア人として日本と和を結び、米英の帝国主義的植民地政策を駆逐すべきである」と電文を送りました。
さらに、インド人やビルマ人に対しても、祖国独立運動をうながす布告をしたため、タイの首都バンコクでは、「自由インド独立連盟」や「ビルマ独立軍」が編成されていきました。(詳しくはインド編・ミャンマー(旧ビルマ)編参照)
そして、翌年1月25日、タイ政府は、米英両国に対して宣戦布告をし、日本と共同戦線をはったのです。
帝国主義下のアジアで独立を保ったタイは、外交上手ともいえます。盲目的に日本と共闘するばかりではありません。どの国も国益を考えて行動するように、タイ政府も心情的な共感だけで、日本と足並みを揃えたわけではありませんでした。これは当然のことです。タイの政府内部でも、ピブンと対立するプリーディー等は、アメリカ政府の支援を受けた
在米タイ人を中心とした抗日組織「自由タイ」と接触を保つなど、二重外交を進めていました。
とくに、ミッドウェーの敗北、ガダルカナルの敗退から、日本軍の不利が明らかになってくると、タイ政府は少しずつ、日本に距離を置きはじめ、終戦後に有利な立場となるよう布石を打ち始めていったのです。
昭和18年11月に開催された大東亜会議にピブン首相本人が、出席するのを控えたのも、敗戦後を見据えてのことといわれています。ちなみに、そのかわりに出席した、タイの王子ワンワイタヤコーン殿下は、戦後、国際連合の議長をつとめた人物で、殿下は、日本の国連加盟を働きかけ、国際舞台への復帰に尽力してくれた人としても有名で
す。
日本の敗戦が色濃くなる一方、タイ政府は、昭和19年のサイパン島陥落直後、日タイ同盟締結の責任者としてピブン首相を追放し、「自由タイ」運動を通じて、英米連合国と交渉を続けました。「日本と同盟
を結んだのは弱小国としてやむを得なかったのだ」、「本心は「自由タイ」運動の表明にあるように、親英米だったのだ」、と表明し、切り抜けることに成功しました。
タイは日本と共闘し、のちに袂を分けることになりましたが、それも国家の独立をかけた必死の外交政策でした。とはいえ、「アジア人よ、立て」、「日本とともにアジアから欧米を駆逐しよう」と呼びかけた思いは、全部が嘘だったわけではありません。
敗戦国として「侵略国」の烙印を押される日本、各国への膨大な戦後賠償に応える日本を見かねて手をさしのべてくれたのは、前述のように、やはりタイだったからです。
日本は、大声で批判する国には弱いようですが、こうした親日国の声に耳を傾けたことがあるでしょうか。日タイ修好120周年を前に、アジアの眼差しに気づいてみたいものです。
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