質問:
日本軍の残虐行為として、バターン半島死の行進という言葉を時々聞きますが、どの様なことがあったのでしょうか?
回答:
概要
大東亜戦争が始まると、フィリピンの総司令官・マッカーサー元帥はマニラを非武装都市と宣言し、マニラ守備軍をバターン半島に撤退させました。
バターン半島とはマニラ湾の外縁を形成し、その先にはコレヒドール島があります。このコレヒドール島にはアメリカの誇る大要塞があり、マニラ湾に入る艦船ににらみを利かせていました。尚バターン半島は幅24km、長さ48kmの小さな半島です。
このアメリカ軍は1942年4月10日に降伏しましたが、このアメリカ軍を、日本はサンフェルナンド近くの捕虜収容所まで歩かせました。その間に大量の死亡者を出したので、バターン半島死の行進と言われます。
原因
では何故このような悲劇が起きたのでしょうか。それは余りにも大軍が捕虜になったからです。アメリカ兵、フィリピン兵に加え、彼らと共に逃げ込んだ一般人を含め計10万人もの人が半島先端のマリヴェスに立てこもりました。急にこのような大勢の人に対する食料の供給を要求されても、日本軍にはそのような備蓄がある筈がありません。又それだけの供給ルートの開拓にも時間がかかったことでしょう。
攻める日本軍は2個師団と言われますから、約3万人位と思われます。戦力的に劣勢な日本軍に何故米軍が降伏したのでしょう。それは日本軍が装備、訓練、志気が米軍を上回っていた事が第一要件ですが、それと共に米軍が食料・医薬品等の補給が途絶え、飢えと悪病に苦しんでいたからです。2月半ばには食料の割り当てが半分になったと捕虜になった米兵が書いています。降伏したときには多くの人が負傷したり、マラリア・赤痢等の悪病にかかっていました。更に食料の支給は殆どなくなったとのことです。常識的に考え、あの狭いバターン半島では、補給路が押さえられる事は目に見えています。つまりマッカーサー元帥の戦略の失敗が最大の原因です。但しマッカーサーがマニラの非武装都市宣言により、マニラ市民が戦火を免れたことは大いに評価すべきだと思います。
日本軍はコレヒドール島を落とさない限り、マニラへの補給が安心して行えません。バターン半島はコレヒドール攻撃の最前線となります。早急にこの飢えた大軍を移動させなければなりません。サンフェルナンド近くに捕虜収容所を作り、そこに収容することにしました。そのオードネル収容所までの道のりはサンフェルナランドまで約100km、そこから汽車でカバスまで行き、更に12kmです。
日本はアメリカと異なり、車が発達していません。100km位は歩くのが普通です。この100kmを7日から11日かかって歩いたのです。1日10kmから15kmです。人によってはそれ以上かかった人もいたようです。しかもアメリカ兵は最低の身の回りの品を持っただけです。決して無理な行程ではありません。しかしこの飢えた大軍にとっては死の行進となったのです。アメリカ兵1500人、フィリピン兵29000人の死亡者を出したと非難されています。もし貴方が司令官だったらどのように処理しますか。
尚人数等については資料により、多少違っていることを追記する。
戦後処理
戦後この作戦の司令官である本間雅晴将軍が、戦争犯罪者として死刑となったほか、何人もの人が戦争犯罪者として、死刑その他、有罪判決を受けています。又サンフランシスコ平和条約16条で日本人が所有していた資産は、個人資産まで没収され、その売却益で米軍、フィリピン軍捕虜に個人補償されました。米軍捕虜には米国から捕虜になった期間1日につき1ドルですから、一人1000ドル以上でしょう。フィリビン軍は国際赤十字から、15.6ポンド+41.3ドルです。
日本は個人補償していないと非難されますが、ちゃんとサンフランシスコ平和条約16条を読んでいるのでしょうかね。又要求している人は、あわよくば二重取りしようとしている卑怯な人達だと思います。
尚捕虜には派遣俘虜取扱規則、俘虜労務規則等により、1人1日1円の賃金が支払われ、この賃金から「俘虜給養費」を差引、個々の捕虜に支給しました。ただこの金は郵便貯金や銀行預金として企業が預かっていたケースが多く、終戦時捕虜に返すことになっていましたが、元捕虜の話を聞くと貰ったという人もおれば、貰わなかったという人もいたとのことです。
●もっと詳しく知りたい人への推薦図書等