特集
マニラ虐殺事件

質問:
日本はフィリピンでは10万人を虐殺したと教えられました。学校で習ったのは日本はフリィピンで十万人の民間人を殺したということです。やり方は泣く赤ん坊を放り投げ落ちてきたところを銃剣で刺すという残忍なものであった、とビデオの中でフィリピン人女性が言っていました。本当なのですか?

回答:

概要


1944年アメリカ軍の反撃で、レイテ島での戦いに始まり、マニラをめぐる攻防となりました。その時、山下奉文将軍はマニラを非武装地域とし、ルソン島北部に撤退しようとしましたが、海軍がマニラ死守を主張し、マニラに立てこもりました。その為マニラは市民を巻き添えとした戦場になりました。
アメリカ軍による爆撃・砲撃に始まり、市街戦で日本軍が全滅するまで、とばっちりで死んだ現地人は10万人に達したと言われます。この時絶望的になった日本兵により、多くの女性が強姦されたり、市民が虐殺されたと非難されている事件です。

一般的に負け戦になりますと、ハイエナが屍体に群がるように市民が敗残兵を襲います。その争いによっても死傷者が出ます。日本兵は玉砕していますので、一方的に非難されるだけで、反論できません。

この「赤ん坊を放り投げ落ちてきたところを銃剣で刺す」というのは、中国では昔からある子供の殺し方で、日本人には思いつかないと思われます。日本は中国で三光作戦を行ったと非難されていますが、日本人には三光作戦といっても意味が分かりません。これは中国の戦法だからです。

マニラには多数の華僑が住んでいました。彼らが自分達なら、こうしたであろうと考えることを、日本軍がしたと歴史を歪曲してプロパガンダしているように思います。

しかしこれもマッカーサーがしたようにマニラを非戦闘区域に指定し、撤退すべきだったのです。山下将軍の指示に従って、マニラを放棄して撤退すればこのような悲劇は生じなかったことですから、海軍の責任は大きいと思います。


その他、フィリピン戦での問題点

日本軍は1942年1月2日マニラを占領しました。マッカーサー軍の主力はバターン半島・コ レヒドールに撤退し、そこで降伏、日本軍の捕虜になりました。この時バターン半島で捕虜になった人達に起きた問題は、別項「バターン半島死の行進」で述べました。

各地に取り残されたアメリカ軍は現地人を取り込み、ゲリラとなりました。更に共産党系のフクラバハップが各地でゲリラ活動をしました。丁度現在アメリカ軍がイラクで苦労しているのと同じです。

マニラでの日本軍の劣勢を知った現地人は一斉にゲリラになり、日本軍の輸送部 隊に襲いかかりました。現地人に奪われた資材を取り返そうとし、行きすぎた捜査になった例も見られます。

更に再上陸したアメリカ軍は共産党系のフクラバハップの弾圧を始めました。ア メリカ軍もゲリラとの戦いになったのです。ゲリラとの戦いは一般人とゲリラの区別が付きにくいため、行きすぎた捜査、刑罰になり、虐殺と非難されます。

フィリピン人はフィリピン軍として、直接日本軍との戦闘にも従事していまし た。大東亜戦争でフィリピン人は100万人余り死んだと言われています。(死傷者が110万人となっている資料もある)そのうち何人が直接戦闘で死んだのか、何人日本軍に殺され、何人アメリカ軍に殺されたかは分かりません。まして虐殺の定義がはっきりしていませんので、何人日本軍虐殺され、何人アメリカ軍に虐殺されたかは分かりません。ただ言えることは中国兵のような虐殺は、日本人には出来ないと言うことだけです。

尚、1945年2月共産系ゲリラのフク団兵士約130人が米軍に虐殺されたとの記 事もあります。ゲリラとの戦いには虐殺の非難はつきもののように感じます。

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