特集
東条首相の戦争責任

杉本幹夫(自由主義史観研究会理事)

「東条首相だけは許せない」という意見を良く聞きます。理由は3点あります。

1.開戦の責任者である。
2.「生きて虜囚の辱めを受けること無かれ」という戦陣訓の作成者であり、この戦陣訓により、どれだけ多くの無用な戦死者を出したか。
3.ピストル自殺に失敗し、自ら作成した戦陣訓に違反し、虜囚の辱めを受けた。

と云うものです。

まず1についてですが、この開戦責任の追及は当然であり、免れるものではありません。東条さんが政治の中枢に入ってきたのは、1940年7月22日第2次近衛内閣に陸相として入閣してからです。それ以前の経歴は関東軍参謀長から1938年6月陸軍次官に就任しましたが、12月には新設された航空総監に就任しており、国の政治とは殆ど関わっていません。

この近衛第2次内閣こそ日独伊3国同盟、対米対決路線に梶を切った内閣として最大の開戦責任を負うべき内閣だと思います。その中でも陸軍強硬派を代表し、日独伊3国同盟・強硬路線を主張したことは、日独伊3国同盟を強力に推進した松岡外相、総責任者としての近衛首相と共に最大の責任者だと思います。

その頃シナ事変は長期化し、和平交渉は行き詰まっていました。その最大の原因はソ連とアメリカの中国援助です。ソ連はシナ事変開戦と共に武器弾薬を援助し、1938年軍事顧問団と共にパイロットや義勇兵を派遣しました。更に1939年5月ノモンハン事変を起こしましたが、1941年4月日ソ不可侵条約を締結し、シナに対する援助は止まりました。
アメリカは1939年7月日米通商条約の廃棄を通告しました。1940年1月対米協調主義者米内光政が首相になり、日米和解を目指しましたが、閣内統一が出来ず、僅か6ヶ月で辞任しました。
その頃、ヨーロッパ戦争が始まり、ドイツが破竹の勢いで東に西に進撃していました。後任に擬せられた近衛文麿は組閣に先立ち、入閣候補者の松岡洋右、東条英機、吉田海相(留任)との4者会談を行い、基本方針が決められました。そこで決められたのが、日独伊三国同盟路線と、仏印(ベトナム・ラオス・カンボジア)進駐による援蒋ルートの封鎖です。日本はドイツの快進撃にドイツの力を過信したのです。又この頃フランスはドイツに降伏し、親独政権が出来たからです。この方針に従い松岡外相は3国同盟を締結し、1941年4月には日ソ不可侵条約を締結しました。

所がドイツは6月にソ連に宣戦布告したのです。独ソが戦争状態に入っているのに、日本はあくまで日ソ不可侵条約を信じ、終戦交渉をソ連に委託しようとしたのですから、日本の外交感覚のなさに驚きます。
この北部仏印進駐、日独伊3国同盟を受け、アメリカは日本に対する屑鉄・石油の輸出を禁止しました。石油が止まって困ったのは海軍です。蘭印(インドネシア)の石油を狙い、41年7月南部仏印への進駐を行いました。この行動がアメリカの逆鱗に触れました。8月にはアメリカのルーズベルト大統領はイギリスのチャーチル首相と戦艦ミシシッピーで会談し、対日戦争を約束しました。

10月対米交渉について閣内の意見が割れ、近衛内閣が総辞職し、東条内閣が成立しました。この頃にはアメリカの戦争への意志が強く、大東亜戦争は不可避となっていました。

私は東条さんが首相として最大の開戦責任を問われていますが、東条さんが首相となった時には戦争は不可避であり、第2次近衛内閣が歴史のターニングポイントだったと思います。その内閣の陸軍大臣として、近衛首相、松岡外相と並んで開戦責任を問われるべきだと思います。
東条さんだけは許せないとの意見には反対です。

2の戦陣訓について、私の伯父も「この戦陣訓により、どれだけ多くの友人が死んだか」と非難していました。しかし考えてみますと、葉隠れに「武士道とは死ぬことと見つけたり」とあるように、武士道の教えを成文化したに過ぎません。
この死を恐れない事こそ日本軍の強さとなったのです。

3の自殺未遂について東条由布子さんは、「祖父は左利きだった。それにも関わらず心臓を狙った為、狙いが外れた」と言っておられます。いずれにせよ武人としての恥のそしりは免れないでしょう



●もっと詳しく知りたい人への推薦図書

・『近代日本戦争史第3編:満州事変・支那事変』
 奥村房夫監修、近藤信治編/同台経済懇話会
・『近代日本戦争史第4編:大東亜戦争』
 奥村房夫監修、近藤信治編/同台経済懇話会

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