質問:
オランダが、日本との戦争中に受けた被害について、補償を要求しているようですが、そうした戦後処理はもう終わっているのではなかったのでしょうか?
回答:
西暦2000年は、日本とオランダの修好400周年の節目にあたるということで、両国では数々の記念行事が計画されています。それは、1600年(慶長5年)にオランダ船リーフデ号が偶然、日本に漂着し、その乗組員が徳川家康と会見したときを起点としています。この両国の歴史的な出会いは、関ヶ原の戦いの半年前のことと考えるとイメージしやすいでしょうか。そして、その後、外国との交易が制限された江戸時代にあっても、オランダとの交流は長崎の出島を通じて続けられ、西洋事情や技術、医学などの「蘭学」は、日本でも多く受容されてきました。今でも私たちの身の回りにはオランダ由来の風習や言葉、食べ物などがたくさん残っています。
しかし、そんな友好の歴史に水を差すような、報道が飛び込んできました。オランダが、第二次世界大戦中の日本の行為を天皇に謝罪させるよう、要求してきたというのです。それと併せて、戦争犠牲者への個人補償を求める声も高まっているといいます。
すでに両国が戦って50年以上が経ち、さらに講和条約、賠償などの戦後処理が済んでからも40年以上が経っています。それにもかかわらず、今もなお、このような不当な要求をするオランダ人のメンタリティーには疑問を持たざるを得ません。それとともに、これに毅然とした対応ができない日本側の不甲斐なさにも大きな問題があると言わなければならないでしょう。
この際、ここで、第二次世界大戦中に、日本は何をして、そしてそのあと、何をしてこなかったのか、きちんと考えておく必要があるようです。
1942(昭和17)年3月、日本はオランダの植民地であったインドネシア(蘭領東インド)に進攻し、わずか8日間の戦闘でオランダ軍を降伏させました。(詳しくはQ3、インドネシア編を参照のこと)
この結果、350年の長きにわたって、インドネシアを支配してきた30万人のオランダ人のうち、軍人4万人と民間人9万人が抑留所に収容されることになったのです。
彼らを収容した施設は、かつてオランダ人自身がインドネシア人従業員のために作った宿舎をそのまま利用することが多くありました。この皮肉な運命に、オランダ人抑留者たちは口々に「われわれ自身がここに入ることになると前もって分かっていたら、こんなにひどくて不潔な建物にはしておかなかった。」と語り、今まで奴隷同然に扱ってきたインドネシア人用の宿舎に入れられた、そのこと自体が、我慢のならない屈辱であったといいます。つまり、自分たちがされたのなら屈辱でしかないことを、現地人には平気でしてきたという矛盾が、この台詞によく表れています。
一般のインドネシア人労働者の宿舎でさえ、こうした状況なのであれば、オランダの植民地支配からの独立を訴えて、拘留されたインドネシア人の運命は、もっと悲惨であることは簡単に想像ができます。そして、その予想通り、オランダの過酷な統治に耐えかねたインドネシアでは、多くの独立運動家が立ち上がっては抑留され、拷問や虐待などで死亡してゆく人、処刑される人が後を絶ちませんでした。しかし、戦後になって、運良く生き延びることのできた、インドネシア人元抑留者がオランダ政府に起こした損害賠償請求に対して、オランダ政府が謝罪をしたり、償いをしたという話は全く聞きません。
しかし、こうしたオランダの事例を挙げて相対化したところで、「オランダもやっていたから日本がやっていても仕方がない」などと正当化しようとしているわけではありません。ただ、オランダ側が、あたかも日本人だけが残虐な行為をし、自分の国はまったく手を汚していないかのように、素知らぬふりを決め込んで、被害者然としているのは、公平感に欠くとは思いませんか。オランダは一体、何をしてきたのか、オランダにそんなことを言う権利があるのか、半世紀も前の決着した問題を今さら持ち出すならば、自国の行いについても、もう少し思いをいたすべきでしょう。
考えてみれば、敗戦国にだけ戦争犯罪があって、戦勝国にはまったくないかのように、“正義”の名で裁いた東京裁判はじめ、各地での戦犯裁判は報復以外の何ものでもありません。しかし、現実に、同じ戦争犯罪をしても戦争に勝った国はまったく裁かれず、謝罪もしません。連合国軍による日本人捕虜の虐待や過酷な強制労働などはいうまでもなく、非戦闘員の民間人を大量殺戮した原爆投下、無差別都市爆撃の犯罪性は、すでに国の内外で指摘されていますが、彼らが罪に問われることは全くないのです。。
わたしたちが知っておかなければならないのは、日本は戦争に負けたために、戦争犯罪を裁かれることになったのだということ、決して日本だけが戦争犯罪を犯したから、裁かれたわけではないということです。
そして、戦後多くの人々が捕虜の虐待や強制労働を課したという罪で、BC級戦犯裁判にかけられ、1000人以上が処刑されてゆきました。さらに約500人が終身刑、約3000人が有期刑に服役し、彼の地で亡くなった人も少なくはありません。この中には多くの冤罪が含まれていましたが、敗戦国としては、その不当を訴えることも出来ず、彼らは従容として刑に服しました。ちなみに、オランダは連合国中で、もっとも多い226人の日本人を処刑台に送っています。
また、オランダとの終戦処理は1951年のサンフランシスコ講和条約と1956年の二国間賠償協定を結んだ結果、日本は、軍人捕虜に対する補償と民間人への見舞金など、当時の換算で約48億円(現在の価値になおせば、1400億円を超える)を支払い、決着させました。これは、敗戦後の貧しかった日本にとって、決して安い額ではありません。
なお、その二国間協定(日蘭議定書第三条)にはこう記されています。
「オランダ王国政府は、同政府又はオランダ国民が、第二次世界大戦の間に日本国政府の機関がオランダ国民に与えた苦痛について、いかなる請求をも日本国政府に対して提起しないことを確認する」
つまり、現在オランダがさらなる「戦争犠牲者への補償」を求めることは、日本国政府の賠償はすべて終了し、オランダ側はいかなる請求も提起しない、というこの協定を意図的に無視しているのです。それにもかかわらず、いまだに謝罪や賠償を要求してくるのは、法治国家として、はなはだ不当なことなのだ、いう認識がわたしたちにはあるでしょうか。
しかも、敗戦国日本の天皇に対しては謝罪を要求しておきながら、オランダの国王は350年もの間、過酷な植民地支配を続けたインドネシア国民に対しては一言の謝罪もせず、金銭的賠償にも一切応じていません。
今から5年前の1995年、オランダ女王がインドネシアを訪問した際にも、謝罪はおろか「植民地支配は互恵的であった」とのスピーチをして、インドネシア人民を憤慨させました。
それどころか、オランダはインドネシアの独立を許すにあたっては、まずその代償として、インドネシアはオランダに対して60億ドルを支払うこと、オランダ人がインドネシアに所有してきた農場などの土地財産は保全すること、スマトラ油田を開発するのにかかった費用は弁済することなどをインドネシアに要求してきたのです。これがオランダの350年間にわたる植民地支配の決算の仕方でした。
インドネシアに与えた被害には目をつむるばかりか、ビタ一文も支払わず、それでいて自分が植民地に置いてきた資産は、きっちりと取り立てる、そうした一方で、オランダが受けた被害には必要以上に敏感です。
最近も、オランダ政府は、日本軍が戦時中にオランダ人の資産を奪った疑いがあるといって調査を行ないました。結果、そのような事実は全くなかったことが証明されたのですが、そのさい、逆にオランダ側が、日本人の資産を「凍結」という名で没収したことはまったく顧みられることはありませんでした。もちろん私的財産の没収は国際法違反ですが、日本はこの資産の返還を要求することも許されず、一切放棄させられました。これをダブルスタンダードと言わずに何と表現すべきなのでしょうか。
こうしたオランダ人の身勝手な態度とその原因を明らかにしたのが、さきごろ日本でも翻訳出版された『西欧の植民地喪失と日本/オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所』(草思社 1998年刊)という本です。著者は、自身も少年時代を日本の抑留所で過ごした経験のあるオランダ人、ルディ・カウスブルックという著名な評論家です。彼は、元抑留者たちによる執拗な日本弾劾は、自分たちオランダ人が350年間にわたって享受してきた“優雅”な植民地支配を、突然“醜い劣等人種”によって打ち砕かれたことへの屈辱感からきていると分析しています。
そして、この“白人の楽園”喪失の怨みからくる彼らの歪んだ心理を「蘭領東インド抑留所シンドローム」と呼び、それを痛烈に批判しました。ちなみに「蘭領東インド抑留所シンドローム」というのは、この本の原題でもあり、優越感と犠牲者意識によりかかって「事実を見ようとしない症候群」を表現した彼の造語です。その主張の骨子を本書より抜き出して、紹介しておきましょう。
「日本軍抑留所を体験したオランダ人がいまだに耐えがたいとするものは何かというと、自分たちより“劣等の人種”に恥をかかされたということなのだ。他の白色人種にやっつけられたのならまだしも、“非西洋の侵略者”に征服されるとは、これこそ耐えられないことなのである。
植民地体制というものは、われわれは“非西洋の”民族より優れているという考え方にあぐらをかいて、優れた者が劣る者を支配するのは当然の権利としている。ところが自分たちは畏敬の念をもって見られ、劣等のアジア民族に君臨する無敵の支配者だとうぬぼれていた東インドのオランダ軍は、思いがけずもアジア民族にあっけなく粉砕される─8日間持ちこたえただけで、羽根のように吹き飛ばされるという不面目な壊滅ぶりだった。そして突然、自分たちは優等人種だという大いなる自負も偽りと欺瞞でしかなかったというオランダ人の本性がさらけだされる。いまや立場の変わった日本人は、機会あるごとにそれをオランダ人に思い知らせることに余念がなかった。(中略)これが東インドから引き揚げたオランダ人にはひじょうに“耐えがたい”ことなのである。」(92〜93頁)
あろうことか、自分たちよりも劣っているはずの日本人によって、そうした「人種差別的偏見」を否定され、白人も有色人種も何ら変わらない、ということを教えられたことが許せないことであり、このシンドロームは本国にいたオランダ人には顕著ではないといいます。
それは、「今日の時代においては、犠牲者たることを礼賛する、ある種の崇拝の風潮が生じ」ているが、しかし「日本に攻撃されたのはオランダ人であるが、彼らは本国にいたのではなく、戦争の舞台となったインドネシアに武力侵入して植民地化し、軍事支配の上にあぐらをかいていたのである。こうした事情のために、東インドのオランダ人の“犠牲者という身分”を証明するのは容易ではなかった。彼らの戦後の幾多の歩みは、自己の潔白を装った姿での、完璧な犠牲者という身分にしがみつくための戦いであった、と見ることができよう。犠牲者という身分にしがみつくためには、“誇張する”と“否定する”の二つの手段が考えられる─自分が耐え忍ばなければならなかった苦しみは誇張し、自分が他人にあたえた苦しみは否定する、ないしは軽く見せようとする。そして、両戦術とも、東インドのオランダ人によってひじょうな熱の入れ方で実践されたのである。」(10〜11頁)
このため、「われわれオランダ人は、過去四十年間もの長きにわたって(1986年執筆当時─引用者注)日本人に対する不満を延々と述べつづけてきているが、こういった(オランダ人の現地人に対する残虐な扱いが20頁にわたって記述されているのを承けて─引用者注)自分たちの悪弊が日本人の振る舞いとはちがっているとでも思っているのだろうか。泰緬およびパカンバル鉄道施設工事の犠牲者数はどうのこうのとか、虐待は云々とか、隅から隅まで調べ上げて、犠牲者名簿や追悼の書を出版したが、自分たちが手を下して殺害したり、虐待して死に追いやったりしたインドネシア人には心を砕くこともなく、彼らの名前は、永遠に誰の知るところでもない。私がひじょうに怒りを覚えるのは、ウィレム・ブランツのように、自分たちの暗黒の過去を知りすぎるほどよく知っていながら、日本軍抑留所(ブランツも私も入っていた抑留所では、オランダ人のしたような戦慄すべき行為はおよそ見られなかった)でひどいあつかいをうけたと激しく怒りたっては、あっぱれな嘘を長年にわたって言いつづけてきた者がいるということである。」(119頁)
ここに登場したウィレム・ブランツとは、オランダ統治時代の現地紙「デリ新聞」の編集長で、この「デリ新聞」とは1926年に「すべてのインドネシア民族主義者は、裁判にかけるまでもなく銃殺に処するべきだ。」と主張した新聞だということです。(107頁)
この本には、著者が調べ上げた、読むに耐えないインドネシア人への暴行、虐殺の数々が記されていますが、ここではオランダ人の残酷さを強調するのが目的ではありませんので、あえてここで紹介はしません。
ただ、日本人だけが残虐な民族であるかのように言い立てているオランダ人には、はっきりとそうではないということを言わなければなりませんし、また、オランダと違って少なくとも、日本人はそれに対する賠償も、非行を犯した者の処罰も済ませてきたということだけは強調しておきたいものです。
インドネシアのマスコミは、5年前にオランダ女王を迎えるにあたって、このような意見を載せました。
「日本政府は、1958年に賠償と援助で8億ドルを出してくれた。ハッタ副大統領は“日本軍はインドネシア独立の恩人だから、賠償という名称は不適当だ。独立達成を記念する祝賀金として戴く”と言っていた。日本政府が3年半の占領の分として8億ドル払ってくれたのだから、オランダは350年分の賠償として800億ドル支払うべきだ。それに独立戦争の死者は80万人だから、一人当たりの補償金を1万ドルとすれば80億ドル、10万ドルとすれば800億ドルになる。つまり、オランダは最低1600億ドルぐらいは支払うべきである。その前に、まず女王に謝罪してもらいたい。」
なるほど、日本とオランダをいちばん公平に見ることができるのは、インドネシアの人々なのかもしれません。
さて、ここまで見てくれば、半世紀前、日本が何をして、そして何をしてこなかったのかはもう明らかでしょう。戦時中にしてしまったことは、たとえ不公平な裁きであったとしても、甘んじてその結果を受け止めてきました。戦犯という名で刑に服し、命で償い、貧困の中で巨額の賠償金を支払ってきた、これが、してきたこと、あるいは果たしてきたことです。
一方、してこなかったこととは、日本政府が、教育の場などを通じて、先人の償いの事実をわたしたち国民に教えてこなかったということです。確かに、日本人の感覚としては、あまり、大きな声で「もう、これだけのカネを払ってきている」などと言うのは憚られることではあります。
だからといって、今また、「日本は戦後処理を怠ってきた」などというプロパガンダに屈し、金銭的要求に応じてしまうというならば、あのとき、戦犯の汚名を着せられ、償いのために、と黙って、日本の平和の人柱になった1000人以上の人の命は、一体何だったのでしょうか。この人々の死は無駄だったというのでしょうか。
日本国民は、“怨み”で誇張された一方的宣伝しか知らされてこなかったために、そのあまりの無知のゆえに、金銭的要求に応じるべきだという一部の声に抗しきれないでいるのです。あたかもそれに同情し、応えてあげることが、良心的であるかのように。
これはまさしく政府の責任です。今からでも遅くはありません。政府は「戦後処理は講和条約で決着済み」などという、血の通わない一片の言葉で終わらせるのではなく、講和条約を結ぶために文字通り血も流し、あるいはそれを結んだ結果、わたしたちが何を果たしてきたのかを、よく説明しなければなりません。
日本人は愚かではないはずです。真実を知ることさえできれば、不毛な戦後賠償論は、たちまち消えていくでしょう。言い換えれば、日本人自身が不当な要求を招いているのです。オランダに限らず、あちこちの国がその無知につけ入って、法外なお金を巻き上げようとしていることを、わたしたちはもっと自覚しなければならないのです。
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